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青春の交友
写真解説を追加しました
「現代批評」のメンバー
左より橋川文三、清岡卓行、奥野健男、井上光晴、瀬木慎一、佐古純一郎、武井昭夫(奥)、編集者の岩淵氏


三島由紀夫
三島邸にて
奥野道子撮影


三島由紀夫と奥野健男
三島邸にて


島尾敏雄と奥野家の庭で


島尾マヤ、島尾ミホ、奥野由利、奥野健男、島尾敏雄

島尾マヤ、島尾敏雄、島尾ミホ、奥野健男、奥野由利、吉本夫人、吉本多子、吉本隆明、吉本家にて


奥野道子



吉本隆明と
下町で


 三島由紀夫


吉本氏と



吉行淳之介と奥野



伊藤整夫人、ヴィリエルモ夫妻
撮影は伊藤整氏


石原慎太郎、宮脇俊三
昭和29年頃



宮脇愛子、奥野夫妻

 
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写真画像の転用はご遠慮下さい
                                     


敬愛する太宰治


写真解説
その後の交友


左より宮脇俊三、北杜夫夫人、宮脇夫人、矢代静一、星野氏、矢代夫人、奥野健男、奥野道子
軽井沢の毎夏の交流
批評家の方々と毎年奥野家で開かれた新年会。上左より佐伯彰一、奥野、下、秋山駿、高橋氏、桶谷秀昭、饗庭孝男



左より奥野美果、メラノビッチ氏、奥野健男、奥野道子、北杜夫、奥野由利
昭和53年頃

現代批評

「現代批評」とは東京工大でご一緒の文学仲間の吉本隆明氏らと、昭和33年に作った文芸誌です。
この写真には何故か吉本さんは写っておられません。 島尾敏雄さんも編集同人に加わっておられました。
戦争で焼けなかった恵比寿の家に毎夜若い文学仲間が集い、トリスの安酒片手に文学論を戦わせました。
2階の座敷の中央にあまりたくさんの人が集まったせいで、床がたわみ、一階のふすまがはずれて、パタンパタンと倒れたそうです。 
★井上光晴さんは声が大きくて、その頃まだ一階に住んでいた叔母夫婦は、井上さんが来られると豪快な笑い声ですぐ分かった
と言ってました。 

★瀬木慎一さんは美術評論家になられたので、私が大きくなってからもお会いする機会がよくありました。
★岩淵さんは子供好きで優しく大好きな編集者さんだったのですが、札幌雪祭りに行かれた飛行機が墜落し、早くに亡くなられました。
佐古純一郎さんはキリスト者でしたので、ミッションスクールの私の中学校に講義に来られたことがありました。
その時は白髪のご老人の印象でした。

★武井昭夫さんは「輝ける委員長」と母が今でも目を輝かして称する初代全学連委員長で、彼がアジルと誰もがなびいてしまったそうです。

★ 清岡卓行さんは 「子供さんに」といつもバナナを手土産に持っていらして、そんな気遣いをなさったのは清岡さんだけだった
と母は述懐しています。

三島邸

深沢七郎の「風流夢譚」掲載に右翼青年が抗議し、中央公論社社長宅に押し入った事件後、三島さんも右翼から脅迫状を送付され、馬込のコロニアル風洋館に閉じこもり状態になった時の訪問です。三島さんは退屈されて奥野を呼んだのか、慰問を申し出たのかどちらだったでしょうか。
厚いビフテキ(当時はそう呼びました)をご馳走になったとか。
三島家の華麗なパーティーは、若き日の三輪明宏(当時は丸山)さんもいらしたそう。。あの華麗なデカタンスな雰囲気を移行して想像なさって見て下さい。フランス語の招待状付きは我が家にも残っています。私は幼いので留守番ですが、我が家に三島御夫妻がいらした事は覚えています。
眼光鋭い子供にお愛想言わない様な方でした。奥様から、黒いダックス犬の縫いぐるみを頂きうれしかったのを覚えています。チャックを開けるとピンクにの折りたたみ日傘の入っているワンちゃんで、その後お人形遊びに大活躍しました。我が家では華麗なパーティーは出来ないので、すき焼きパーティーとかだったでしょう。

島尾さん

島尾敏雄さんは奄美大島から東京に出ていらした時は、必ずうちに泊まってくださいました。
今のようにビジネスホテルがあるでもなく、昔はたいがい人のお宅に泊まったものですが。
島尾さんは親戚のように我が家になじんでくださっており、よく朝とか寝る前に枕を並べてお話をねだったものです。
怖い話と、悲しい話で、2つしか覚えてないのですが、たぶんそれを繰り返ししてくださったのだと思います。
奥様のミホさん、長男の伸三さん、お嬢さんのマヤさんとも親しくお付き合いがありました。
マヤちゃんはご病気で声を失い、作品「死の棘」を読むと、大変な人生を歩まれていた島尾さんですが、
悲しい顔は一度も見たことはありません。私にとってはいつも優しい穏やかな「島尾さん」であり、何でも話せるおじ様でした。
父と、固い友情と信頼関係で結ばれておりました。

北杜夫と宮脇俊三

「北杜夫の文学世界」(昭和53年発行、奥野著)、サイトのタイトル「奥野健男の文学世界」はこの題から引用しました。
我が家に残るその本の見開きに
「永き3人の友情の小さな結晶を共に祝って。軽井沢の北別荘にて」
と奥野健男、北杜夫、宮脇俊三の署名があります。
北さんと奥野は麻布中の理科学部博物班に属し、長じて文学の世界で再会を果たします。
北さんの「船上にて」を奥野は中央公論編者の宮脇俊三に紹介し、宮脇氏の努力により
「どくとるマンボウ航海記」が誕生しました。
宮脇俊三さんは奥野と青山師範小学校(現学芸大付属) の同級生以来、親友でした。
宮脇さんは編集長時代を経て鉄道紀行作家になられました。
北家と宮脇家は、我が家と長く家族ぐるみでお付き合いさせて頂いています。

吉本さん宅

この写真はうちの母が撮ったものです。多子(さわこ)ちゃんは吉本さんのご長女。少女漫画雑誌が我が家よりたくさんあって、夢中になって読んだ事を覚えています。
吉本さんは父とは東京工業大学で伊藤整の下、文芸部に属していました。
奥野は昭和27年に文芸部誌「大岡山文学」に「太宰治論」を発表、話題を呼び、文芸評論家の道を歩み始めます。 
吉本さんは太宰治の家を訪ね、飲み屋まで追っかけ話しまでした経験があったのですが、奥野は太宰治に会っていません。
それは生涯悔しく思っていたようです。

ビリエルモ氏とメラノビッチ氏

海外の日本文学研究家が何人か親しく我が家を訪れ、奥野は惜しみなく作家達を紹介し、もてなしました。
ビリエルモさんは進駐軍として来日し、女子大生だった母にプルーストを読ませる仏語の先生でもありました。川端康成の翻訳などで知られ、三島由紀夫氏とも親しくつきあい、後にハワイ大学の日本文学科の教授。原水禁の活動家で毎夏、広島の大会にご夫婦で訪れていました。無類の批判精神と正義感あふれる明るいお人柄。
メラノビッチさんはポーランドの日本文学者で漱石始め、多数の翻訳を手がけておられるワルシャワ大教授。あまりの流暢な日本語に感心させられました。何度かご家族で日本に滞在され、親しくお付き合いしました。

                  ☆ 写真はクリックして大きくしてご覧ください。   2008年5月5日更新   百瀬由利