「島尾敏雄と奥野健男    三輪太郎さんの講演               作家・島尾敏雄と文芸評論家・奥野健男の交流

                      
 「島尾敏雄と奥野健男    三輪太郎さんの講演                           2011年1月29日

開催中の【渋谷文学館】 企画展で「島尾敏雄と奥野健男」講演会が開かれました。

三輪太郎さんにとても深い濃厚な講演を聞かせて頂きました。


三輪太郎氏(作家・文芸評論家)
代表作「ポルポトの掌」(「あなたの正しさと、ぼくのセツナさ」)
「『豊饒の海』あるいは夢の折り返し点」群像新人文学賞 <評論部門> 受賞
東海大学講師
                                                     
          




三輪太郎さん、本名 森雅孝さんは
文芸春秋の編集者をなさっていたのですが、
父の闘病中、「三島由紀夫伝説」を文庫化するのに
短くする作業をお願いしました。

結局 新潮文庫から刊行されたのは父の死後だったと思います。
その後、編集社をやめられ、世界を旅しに行かれ 本を書きたいとおっしゃっていました。

父 奥野が亡くなってから 三輪さんに13年ぶりにお会いしましたが
初めてお会いした大学生の時と変わらぬ初々しい ご様子に驚きました。

講演中
「日本は戦後、戦前の日本を切り捨てたかのようにしたが

まだその戦前に対して、 和解も決別も理解もせず、うやむやにしている。」
と言うご発言をなさっていましたが
戦前の奥ゆかしさを残したような古風なたたずまいの三輪さんです。

私、奥野健男の長女・百瀬由利が概要をまとめさせて頂きます。
なお、()括弧内は私の言葉です。



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「島尾敏雄と奥野健男」                       講師 三輪太郎


奥野さんとの出会いはファンで早稲田の大学生だった僕が
三島由紀夫の講演の依頼に伺った時でした。

奥野さんは
「まあこれを読んでご覧」
と深沢七郎の「風流夢譚」をその場で僕に読ませました。

「風流夢譚」は皇室に不敬表現のある作品だと、右翼に攻撃され
出版した嶋中社長の女中さんが殺される事件に発展しました。
三島由紀夫がその「風流夢譚」を推薦したということで
警察が三島由紀夫を守ると言う、ちょっと不思議な 事態でした。

余談ですが、三島さんが三島邸に缶詰になった時に呼ばれた父と母。
その時に母が撮った写真、気さくな三島さんです。 )

(写真)

奥野さんが伝えたかったことは
三島の政治的考えと文学的立場は別であると言う事でしょう。

文春の編集者時代に吉本隆明氏も担当しました。。
明るく親切な吉本さんですが、ある時、スイッチが入ると闘争モードに
なる。
しかし、吉本氏の親友でもあった奥野健男は終始穏やかで誰に対しても
同じ態度だった。
奥野健男の文の特徴は
僕ときみ」で始まる。

若い20代でなく すでに壮年の奥野が どのような読者に対しても
すーっと入ってくる 率直な「僕、きみ」で会話する文体。
お坊ちゃん育ちと言ったらそれまでですが
吉本隆明がちょっと難しい思想の文章に比べ 奥野さんのは分かりやすい平易な文章です。


奥野さんの葬儀の時、僕はお棺を担がせて頂きました。
担いだその重さに震えが止まらなくなり その夜もがたがたと震えて
一睡も出来ませんでした。。



その下りで三輪さんは嗚咽で言葉が止まってしまわれました。
13年も前の氷雨の葬儀の日が蘇りました。
父の死がそんなに三輪さんにとって大きな損失だったのでしょうか。 )

島尾敏雄の代表作は「死の棘」ですが
僕はは20代に読んだ時は 最後まで読みおおせなかったが
40代になって再読して、その良さが分かりました。

僕はご自分の文体を探すのに何通りもの文体を試しました。
なかなか気に入ったものが見つからなかったのですが
島尾さんの代表作「死の棘」の美しい文体に文体の理想を見ました。
ガラスの文体であり、同時に自己を映す鏡であると。


「死の棘」より(抜粋)

●『あなたの気持ちはどこにあるのかしら。どうなさるおつもり?あたしはあなたに不必要なんでしょ。
だってそうじゃないの。10年ものあいだ、そのように扱ってきたんじゃないの。
あたしはもうがまんはしませんよ。もうなんと言われてもできません。爆発しちゃったの。
もうからだがもちません。見てごらんなさい、こんなに骸骨のように痩せてしまって』

●『あなた、あたしがすきだったの、どうだったの、はっきり教えてちょうだい・・・・じゃ、
どうしてあなたはあんなことをしたんでしょう。ほんとにすきならあんなことするはずがない。
あなた、ごまかさなくていいのよ。きらいなんでしょ。きらいならきらいだと言ってくださいな。
きらいだっていいんですよ。それはあなたの自由ですもの。きらいにきまってるわ。
あなたはほんとのことを、あたしに言ってちょうだいな。このことだけじゃないんでしょう。
もっとあるんでしょ。いったいなんにんの女と交渉があったの?』

●「妻は私の肝をつつき、その非をついばむことに容赦しないが、私からもぎ取られてしまえば彼女は
生きて行くことができないことに気づいた私は、彼女を手放すことはできない。
はっきりどれか一つをえらび、そして家の中に閉じこもったとき、私は家の外をみきわめないままに放棄された。
だから外の方はがらんどうの暗黒となって残り、そちらからいざないと審きがかさねてやってきて
いつ襲いかかられるかわからない。」



●「自分の身のまわりに起こる事件が、最悪の状態にころがって行くことは、むしろ、ひりひりした正確さがあっていい、
とほんのしばらくそう思った。」

●「妻がふとんをかぶって紐で首を絞めると、私はそうさせまいとしたあげく、ふたりはくんづほぐれつ取っ組み合いになった。
一方が出て行けとどなっても、相手が出て行こうとするとそれを止めにかかり、どこまで落ちて行くのが見当がつかない。
・・・・『オトウシャン、ジサツ、シュルノ?』・・・すさまじい荒れた気配が家のなかいっぱいで、
障子もふすまもぶつかって手を突っ込むからさんばらに破れ、ちゃぶ台に使っていた応接台も私がからだごとぶつけたとき、
台が抜けてこわれた。二時ごろだったろうか。どちらからともなく疲れて中休みのかたちになった。」

●「頬の肉こそ落ちたが、丸顔で広い顔の造作のせいか、眠りのなかのその顔のときの疑いを知らぬひたむきなそれが
あらわれてきて、今にもかたりかけてきそうな錯覚を覚えた。
・・・・・眠りのため妻の意識は潜んでいるから、反応を受けずに娘のときそうしたように唇をそっとかさねることもできた。
すると深夜に部隊を抜け出し、岬の峠を越えてたどりついた部落奥の、家の縁側で眠っていた彼女に唇を合わせたときの
感触がよみがえった。
なんだか犬ころに近づくときめきのなかで、小鳥のやわらかな頭を両手で抱き取っている感じがし、
彼女のにおいは、すべて起らぬ前のやさしい状態につれもどしてくれたかと思えた。」

●「『力が弱い。もういっぺん』
と妻がいえば、さからえず、おおげさな身ぶりで、もう一度平手打ちをした。女はさげすんだ目つきで私を見ていた。
『そんなことぐらいじゃ。あたしのキチガイがなおるものか』



ミホさんは押しかけ女房でなかったのです。
戦後、神戸に戻った島尾敏雄は決められた縁談を断り 奄美のミホさんを呼び寄せました。
ミホ夫人は密航同然に船に乗って来ました。
しかし家族の反対を受け 夫妻は東京で暮らし始めます。
長男長女を設けますが 島尾には同時に愛人との生活がありました。


その不倫が発覚し、怒り狂う妻と夫の壮絶な喧嘩。それも2人の子供の前で。
そして遂に気が狂ってしまった妻に付き添い精神病院に入院する夫。
(娘のマヤちゃんはショックで言葉を失ってしまう。)

都会の中で孤立する家族。
同輩の文学仲間(庄野潤三小島信夫、遠藤周作)は芥川賞を取り、取り残される島尾敏雄。

その島尾を後押しして支えたのが奥野健男と吉本隆明でした。
特に、奥野の「島尾だけだ」という執ような支えは
「彼が私の仕事に手を添えてくれたことを感じ喜び以外のなにものでなかった」
と島尾さんが書いています。


「『死の棘日記』より

●奥野、吉本と有楽町で待ち合わせ。一たん学士会館(奥野「近代文学」の席に出る)吉本と談話室で待ち、
あと目黒の武田泰淳を誘う。不在。三人奥野宅に行き日本酒のむ。奥野に店仕舞いしないように吉本と二人で言う。
二人が太宰治、中野重治、島尾という風に日本文学にかけていることを言う。奥野しつように言う。
島尾だけだという風に。吉本、島尾サンハ批評等ニ怒ラナクチャイケナイ、怒ッテクダサイ。
十二時過ぎ吉本と帰る。3・16」

「『初めての経験』(群像)1964・8

●それを読んだ時、いろいろの感慨のかなたで、彼が私のしごとに手を添えてくれたことを感じ、
それは喜び以外のなにものででもなかった。そこに描き出された小説家の肖像は、私と言うよりは
奥野健男のものがたりの中に誕生したそれをように思うが、わたしにとってはその第二の『私』によって
世間との交通のいとぐちを与えられたことにあった。」



長編「死の棘」の出版の折、奥野の「島尾敏雄論」も並んで書店に並びました。
主君、木曽義仲と兼平の関係に三輪さんは作家と評論家を例えました。

決して作家よりでしゃばらず、後から援護する。奥野と島尾はその関係でした。           

すぐれた文学作品は方程式のように物事を代入出来ます。
奥野健男ははミホ夫人を「古代的絶対性」ととらえ、島尾を「近代的自我」とたとえました。
僕は ミホさんに戦前の日本を代入して考えます。

また、すぐれた文学作品はリアリズムを土台にして、より高みへと飛躍します。

僕は沢木耕太郎、金子光晴の「どくろ杯」により紀行文学にあこがれ、アジア放浪に出ました。
(そして三輪さんは「ポルポトの掌」を書きあげます。 )

最後に 三島由紀夫と島尾敏雄の違い。
三島は一度は戦争から逃げ、最後に自決という形でけじめをつけました。
島尾は戦争からも、人生からも決して逃げなかったのです。

『島尾敏雄』 奥野健男・著より
●「この小説は、近代的自我と古代的絶対性との壮絶なたたかいの記録と言ってよい。
それは世界の文学にも稀な本質的な近代、と古代との相克である。
・・・島尾はただひとり文学者として近代人を代表して、古代人の霊能的絶対性に立ち向かって行く。」





「島尾敏雄と奥野健男」 渋谷区郷土博物館・文学館発行より

                                                

島尾伸三さんのエピソード

講演後、島尾敏雄さんのご子息伸三さんにも一言頂きました。
島尾伸三さんは写真家で、ひょうひょうとした文章も書かれる方です。
「お父様のエピソードを」
と三輪さんに求められて
私は父の小説を一切読んでおりません。」
ときっぱり言われました。

「小さい時『兄、妹』
と言う題の原稿用紙の文を僕が赤鉛筆で添削しました。
それで父は
「これは出さないから」
と約束してくれました。
しばらくしたら本になって書棚に並んでおりました。」(一同爆笑)
「その文章以外は読んでいません」

                    

そして死の棘の夫婦喧嘩で島尾さんが体をぶつけて
ちゃぶ台が壊れるシーン
「あれは正しくは父がちゃぶ台を足蹴にして壊したのです。(ここでも一同爆笑)
その時の情景は今でもまざまざとよみがえります」

それから
いきなり私にも三輪さんが
「是非、由利さんにも沖縄旅行の話など島尾さんのエピソードを」
と言われたので 話すことになりました。

東京を離れミホ夫人の故郷の奄美で長く図書館長を務めた島尾さんは
たびたび上京し、隣のトトロのサツキとメイの家のような大正文化住宅の我が家に
泊りました。
父と母と布団を並べた島尾さんに 私は怖い話や民話をたくさん話してもらいました。

何度も何度も同じ話をねだりました。

大学生の時、春休み友人と沖縄に旅し、島尾さんご夫妻に
その頃お住まいだった那覇市を案内して頂きました。
(白っぽい乾いたような街でした)

途中、私達は街中で道に迷ってしまいました。
その時ミホ夫人は
「まあ、どうしましょう」
と不安げに少しパニックになってしまわれたのです。

すると 普段は肩の力を抜いてへらへらと笑っておられることの
多い島尾さんが
「大丈夫、心配せずに私についてきなさい」
と 急にしゃきーんと背筋を伸ばして、
先頭をすたすたと歩かれました。

それはまるで戦時下の隊長さまに帰ったような、頼もしい島尾さんでした。
ミホ夫人は私達を振り返ると
「ついてきなさいですって」

と少女のようにうれしそうに微笑んで いそいそと島尾さんにつき従いました。
(たぶんその時お着物だったと思います)

私は夫人が望んでおられるのは こんな島尾さんなのだと
妙に納得しました。」

以下は↓
昨年、企画展開催に先立ち、島尾さんの思い出を書いた拙文です


☆島尾敏雄さんのこと                                 百瀬由利

作家島尾敏雄さんは
我が家と親しい作家で東京に来た時はいつも家に泊ってくれました。
幼い私は「しまおちゃん」と慕って布団にもぐりこみ
お化けの話や民話を繰り返し繰り返し、ねだりました。

夫婦の葛藤と愛の真実を描く「死の棘」が有名ですが
「出発は遂に訪れず」
の海軍特攻隊震洋で出撃準備をするが、
ちょうど終戦8月15日を迎え、出撃命令が出されず九死に一生を得る

自らの体験に基づく作品が衝撃的です。


文学館の学芸員の服部さんに
「島尾敏雄さんってどんな方でしたか?」
と訊かれた時に
「マイケル・ジャクソンみたいなんです。」
って答えた私。
島尾さんは歌や踊りには無縁ですから
「子供好きなんですよ!」
ってことだけだったんですが。

                  

ボート型の特攻隊隊長として、学徒でありながら奄美の小島に赴任した
島尾さんは
「あれ、島尾隊長はまこと神様のよう」
と村人に歌われるほど親しまれ、子供たちと手をつなぎ歩き回り
困った事があれば村人を助け、頼もしい隊長さんだったそう。

沖縄では村人を集団自決に追いこんだり、軍が壕を占領し村人を
追い出し殺してしまったり、と言う鬼のような旧日本軍人の蛮行とは
大ちがい。
美しい話です。
特に可愛いがった小学生の女の子Kちゃんの担任の先生が
島長の娘で美しいミホさんでした。

私にとって、そんな恐ろしい体験や悩みは微塵も感じさせない
優しいひょうひょうとした和やかな笑顔の子供好きの「島尾さん」
でした。
奥様のミホさんも島尾さんの浮気が原因で狂気の病に陥る激しさ
は全然感じさせず、優しい信心深い女性の印象しかありません。

父と島尾さんは文学仲間であると同時に心を許し合う親友でした。
遠い奄美から たまに上京された島尾さんは 何度となく我が家を訪れてくださいました。

後にどこかのエッセイで
「布団にもぐりこんでお話しをねだってくる幼い子の足の
滑らかな感触がたまらなく甘美だった」
云々と書いているのを読み
「あ、これ私のことだ」
と思うと同時に、そんな風に感じていらしたのかと
少しどきどきしました。

 

奄美に行きました                               20100719

島尾さんが亡くなって20年以上、父が亡くなって10年以上経ちますが
渋谷区の文学館で
父、奥野健男と島尾敏雄さんとこ交流をテーマにした企画展 

「島尾敏雄と奥野健男」が来年1月に開かれます。

そこで、島尾さんが長く図書館長を務めた奄美の島尾さんの図書館の
島尾敏雄展示コーナーを観に 先日 奄美大島に行って来ました。

島尾さんの展示を観るのを一応目的に
「南の島に行ってみたい」
とあこがれていた中2の次男を連れ、奄美に行って来ました。
2人だけはいや!と言うので84歳の母も説得して一緒に行きました。

島尾さんの息子さん伸三さんに紹介して頂いた方に
名瀬を案内していただくことに。
最初に訳の分からない建物に連れられ、地元新聞社の取材を受けてしまいました。
奄美では島尾さんは尊敬される有名作家なのです。

次に博物館の島尾さんコーナー。素敵な笑顔の島尾さんとご家族の写真がいっぱい。
伸三さんは写真家なのですが、島尾敏雄さんも写真が趣味だったそうです。

して特別に保存されている、長く務められた図書館脇の小さな小さなお宅。
その前の島尾敏雄文学碑
イザヤ書の聖句からの言葉が刻まれていました。

その後、、旅の目的である 豪華に新装なった図書館の島尾さんの展示コーナーへ。
もうここへ着いたのは4時半を回ってました。

とてもカラフルな見やすい展示です。
戦時中、部下を飛脚代わりに交わした島尾さんとミホさんの往復書簡 が熱い
父が島尾さんの没後ここへ訪れて書いた色紙を初めて見ました。

「奄美を訪れると島尾敏雄と久しぶりに会っている思いがする」
1994
1127

私はたくさんの懐かしい島尾さんの笑顔写真と出会えましたが
もうこの世にいない島尾さん、という事実をかみしめて
余計悲しい思いがするばかりでした。

 

  

        

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