はじめに
精神医学・精神科医療の世界は、これまで多くの偏見と差別に満ちていましたし、その傾向は今も残っていると思います。おそらくは、こうした偏見や差別を
助長しないように、という配慮からでしょうが、精神医学・精神科医療はその知見をあまりオープンにしない傾向があるような気がします。
何かの犯罪があって犯人像からはある特定の精神障害が強く考えられるようなケースがあっても、マスコミに出てくる多くの専門家はあえてその診断名に言及
することを避ける傾向があるように見えますし、場合によっては特定の診断名の精神障害について、極めて善意に満ちていて好意的ではあるけれどある種の歪曲
をして説明をすることさえあります。精神障害の病名には、あえてその特徴が分かりにくいように曖昧な名前になっているものがありますし、偏見が定着してし
まったからという理由で「精神分裂病」という病名が「統合失調症」という名前に変えられたり、病名そのものが差別的だという理由で「精神遅滞」が「知的障
害」という名前に、「痴呆症」が「認知症」という名前に変えられました。病名は病名ですし、事実は事実です。そこに何の悪意もあるはずはありません。「あ
なたは精神分裂病です」といったところで、「あなたは糖尿病です」といったのと同じ病名の告知という意味しかないわけですし、「あなたは知能が低いです」
といったところで、「あなたは赤血球のヘモグロビン値が低いです」といったのと同じデータの開示という意味しかないわけです。そこに何らかの価値観をから
ませ、悪意ある意味を付加していることに問題があるわけで、病名やデータそのものに問題があるわけではないだろうに、と私などは思ってしまいます。だいた
い、名前や呼び方を変えたところで、本質的な議論をおきざりにしてしまったら、何も変わらないでしょう。
私は10年くらい自衛隊で生活していた事があります。自衛隊という世界も、非常に誤魔化し的な名前の問題が残されているところでした。そもそも「自衛
隊」という名前自体、「軍隊」とどこが違うのかということを誤魔化しているように見えますし、「攻撃」的な意味合いのある用語をいろいろな曖昧な表現の言
葉に置き換えて、「正当防衛の延長である自衛戦闘だけを行うんだ」という建前論ばかりを前面に出していました。一番いけないのは、こうして誤魔化し続ける
ことで本質的な議論を後回しにしてしまい、いざ戦場に派遣されることになったときに慌ててどうしようか、という議論になってしまうことでしょう。
一般の人たちにはあまり知られていないかもしれませんが、精神医学の分野はここ数十年の間にものすごい勢いで進歩してきています。これまで全く分からな
かったことが分かるようになってきていますし、これまで信じられていたことが科学的な方法で否定されてきています。しかし、恐らくは先に述べてきた精神医
学・精神科医療の秘密主義・閉鎖性のために、あまり一般の人たちには知られていないのでしょう。私が危惧しているのは、こうした秘密主義・閉鎖性を続ける
ことで、かえって変な誤解や間違った考え方がまん延してしまう可能性があること、かえって精神医学や精神科医療に対する不信感が増大する可能性があるこ
と、です。
私がこれを書こうと思った理由の1つはそういうことです。ここで私が書いていこうとしているのは、精神科疾患についてどう考えるべきかとか、どんな治療
が効果的かという実用的な話ではなく、もっとトリビア的な知識が中心になる予定です。しかし、そのほとんどは、「あまり根拠はないけど、私はこう考えてい
る」という事ではなくて、科学的研究結果をもとに示唆される考え方であり、多少の馬鹿馬鹿しさを合わせ持ちながら(科学的研究結果をもとに示唆される新し
い考え方というのは、何らかの点でたいてい多少の馬鹿馬鹿しさをともなっているものです。その点を読み取りにくい方には、この書物はちょっと危険かもしれ
ません。)、何らかの点で人間とは何なのか、心とは何なのか、という本質的な問題に思いをはせるきっかけにさえなるかもしれない事柄になる予定です。
私がこれを書こうと思ったきっかけのもう1つは、精神科疾患やいろいろな心の問題についての専門家の人たちとの議論で出てきた思いからでした。どうして
人は心を病んでしまうのか?という疑問について、昔からいろいろな説がありました。人は何かわけがあって心を病んでしまうのだろう、と。うつ病やPTSD
は何か辛いことがあって起こってくるのでしょうし、神経症やパーソナリティー障害は生まれ育ってきた環境や親子関係などの解消されない葛藤がベースにあっ
て生じてくるのだろうと考えられていました。もっと昔は統合失調症も何らかの親子関係のうまくいかなさなどの「育ち」の要因があるのだろうと思われていま
した。しかし最近の科学的な研究によってこうした仮説が検証されてくるにつれて、精神疾患の病因論はそんなに単純なものでも、ロマンチックなものでもない
であろうことが示唆され始めてきました。人は嫌なことの原因を何か外的なものに求めたくなるものですし、「こういうことがあったから、こうなったのだ」と
いう説明の方が分かりやすく、受け入れやすいものです。しかし、事実はそんなに単純なものではなさそうなのです。こうしたことも、おそらくは驚くほど一般
の人たちには知られていないのではないかと思います。
科学はすごい勢いで進歩しますし、精神医学・脳科学も例外ではありません。私がここで書くことが5年後にはとんだ時代遅れの考え方で、全く否定されたも
のになっているかもしれません。科学とはそういうもので良いのだと思います。
私がここで書く内容は、全く身もふたもないことだと感じる人がいるかもしれません。どうしてそんな身もふたもないことを書くのだと憤慨する人さえいるか
もしれません。しかし多くの精神疾患には、有効性が科学的に証明された治療法が存在しますし、多くの問題には対処法があることも事実です。最初に書いたこ
との繰り返しになりますが、事実は事実であり、それだけのことなのです。そこに何かの価値観をからませ、意味を付加するのは、私たち1人1人の問題です。
1章:誰がクックロビンを自殺に追いやったのか?
現在日本だけでも年間3万人以上が自殺で死亡していると言われますし、働き盛りの若い人たちの命が失われる事になるので非常に大きな問題でしょう。自殺
は防ぎうる死として考えられることが多いですし、ですから残された人の無念さや悲しみは相当なものでもあるでしょう。
精神疾患を持つ患者に自殺は少なくないですし、逆に自殺をした人の多くは何らかの精神疾患を持っている事が示唆されてもいます。精神科の中で自殺は非常
に大きな問題ですし、最も不幸な転帰ということになるでしょう。
最近、自殺がこれだけ騒がれ、増えているのはなぜなんでしょう。昔に比べ職場やプライベートでのストレスが増え、しかも自殺予防因子になるような人との
関わり合いを通じての気持ちの支えの少なさも関係しているかもしれません。ひどい話で、社会がどんどん進歩して豊かになってきたと思ったら、生活のスピー
ドはどんどん加速度的に速くなり、忙しくせっかちに生きなくてはならなくなり、ある面では非常に豊かで便利になったかもしれませんが、別の側面ではかえっ
てギスギスしてしまい豊かさが失われたことにもなっているのでしょう。昔の人が夢見た便利で豊かな未来というのは、こんなものじゃなかったはずなのに。
精神科の臨床をしていると、うつ病や抑うつ状態で受診してくる若い人が非常に多いです。会社で過酷な仕事を与えられ、朝から晩まで仕事をして、休日もほ
とんどなく、しまいには精神的に破綻してきてしまう・・・。聞いているだけで気の毒な話です。こうして抑うつ状態になって精神科を受診してくる人は、たぶ
ん良い方なのです。一人で抑うつ症状を抱えて、どんどん悪化させてしまい、最終的に死ぬ事しか逃れる方法はない、と思い込んでしまったときに自殺の危険が
でてくるわけです。最近では、社員に過酷な仕事をさせて、抑うつ状態にさせ、さらには自殺に追い込んでしまったケースで訴訟になりニュースとして聞く事が
増えた気がします。私は、個人的には、社員をあまりにこき使って抑うつ状態にしてしまったり、精神的な健康管理が十分になされない職場環境を放置しておい
たり、自殺に追い込んでしまった場合に訴訟を起こされ、裁判で負ける可能性がある、という雰囲気になっていた方が、企業側が真剣に精神衛生について考える
ようになって良いのだろうな、と思います。しかし、社員が仕事のストレスが背景にあって抑うつ的になり自殺をしてしまったという場合、会社が責任をとらな
くてはならない仕事上のストレス要因が何%であり、それ以外のプライベートなストレス要因が何%で、その人個人の脆弱性が何%で、だから全損失の何%を企
業が損害賠償するのが妥当だ、などということは本当には決められないでしょう。損害賠償の考え方ではなく、雇用主には被用者の健康管理をする義務があっ
て、精神衛生についてもそうなのだから、するべき注意義務を怠ったという理由で訴えるにしても、自殺行動まで予見するのは不可能だ、と言われてしまえばそ
れまでのような気がしますし、やはりここでも自殺という結果について、本人側の要因(脆弱性)が何割の寄与率を持っていて、ストレスなどの環境要因が何割
の寄与率を持っているかを正確に推定することは、ほぼ不可能でしょう。
うつ病や抑うつ状態に限らず、統合失調症の急性期症状の増悪にしても、外傷後ストレス障害(PTSD)にしても、ほとんどの精神疾患について「ストレ
ス・脆弱性モデル」というのがあります。つまり、その人の体質的なもともとの脆弱性があるところに、何らかの心理的なストレスがかかって症状を生じるよう
になる、という考え方です。しかし、多くの場合、ストレスの寄与率が何%であり、脆弱性の寄与率が何%か、ということを推定することはできないのです。で
すから、時々自らPTSDだと訴える患者さんが受診してきて、例えば配偶者からの暴力が原因で不安発作などの症状を起こしてしまった、だから裁判で相手を
訴えるために必要だから、精神症状の原因が配偶者からの暴力にあるという診断書を書いてくれ、と希望してくることがありますが、私はたいていそれはできな
いと答えています。因果関係を科学的に証明することはできないのです。自殺問題についても同様であって、状況からしてどう見ても会社が働かせ過ぎですし、
そのせいできっと抑うつ状態になったのでしょうし、そのせいで自殺をしてしまったのだろうな、と思えるケースであっても、因果関係を科学的に証明する事
は、本当はできないはずなのです。
さて、ここからが身もふたもない話になってきます。精神科の疾患の中で、当然といえば当然ですが、昔からうつ病・抑うつ状態と自殺行動の関係は注目さ
れ、いろいろな形で研究がなされてきていました。多くの患者のデータを集めて、どういう特徴のある人が自殺行動に至るリスクが高いのか、ということを調べ
た研究がたくさんあるのですが、その結果、うつ病・抑うつ状態の患者の中にも自殺行動のリスクが高い人たちと、そうでもない人たちがいることが分かってき
ました。一体どういう人たちにリスクが高いといえるのでしょうか?最近注目されている因子の1つに遺伝というものがあります。つまり、自殺や自殺関連行動
のリスクは遺伝子によってある程度決まっているらしい、ということが分かってきたのです。
例えば、Liebらの研究(2005年)によると、母親に全く自殺企図の既往も希死念慮の経験もない場合の子どもが自殺企図をしたことがあるのは5%程
度であったのに対して、母親に自殺企図の既往がある場合の子どもの自殺企図の率は17%程度にまで上がってしまっていました。またMannらの研究
(2005年)では、抑うつ状態の患者を対象に、1親等の家族に自殺企図をした人がいるかどうかを調べていますが、その結果、自殺企図を起こした抑うつ状
態の患者の23%が身内に自殺企図既往者がいたのに対して、自殺企図を起こしていない抑うつ状態の患者の場合身内に自殺企図既往者がいた率は13%でし
た。また、このMannらの研究では、身内に自殺企図既往者がいるということ以外に、病前から衝動コントロールに問題があり攻撃的な行動パターンを持って
いること、小児期の虐待歴があること、などが自殺行動のリスクファクターになっていることが示されています。(統計学的なものの考え方に馴染みがない方の
ために、リスクファクターという用語についてちょっと注意を付け加えます。リスクファクターとは、その条件が満たされていると、ある事象が伴われてくる確
率が上がる事象のことであって、純粋に統計学的な用語です。そこには全く因果関係をうんぬんできるものはないのです。ですから、例えば小児期の虐待歴が後
の自殺行動のリスクファクターになっていると言ったところで、小児虐待が自殺行動の間接的原因になっているとは言えないのです。統計的に言えるのは、た
だ、小児期に虐待されたような人は、そうでない人に比べて、その後自殺行動を起こすことになる確率が高い、ということだけです。)その他にもたくさんの研
究から、自殺行動というのは強い遺伝性があり、遺伝的な要素だけで17%〜45%が決定されており、生育してきた環境などの環境要因と合わせて形成される
その人の脆弱性というもので35%〜75%が決定されているだろうと推定されるようになっています。(Mannらの研究だけでなく、例えばDumaisら
の研究ではうつ病の病気中に自殺で死亡してしまった男性104名と、うつ病ではあっても自殺企図をしたことがない男性74名を比較し、自殺によって死亡し
てしまった人については、生前から衝動コントロールが悪く、攻撃性が高く、境界性人格障害や反社会性人格障害、アルコール依存症などの衝動コントロールに
問題のある精神障害を統計学的に有意に合併しがちであることが示されています。つまり、もともとの性格的傾向で衝動性が高く攻撃性が高いタイプの人は、う
つ病になってしまったときに自殺リスクが高い事を予測しなくてはならない、ということになります。)
Mannらの研究が示しているもう2つのリスクファクターについてはどうでしょうか?自殺行動というのは、自分自身に向けられた攻撃性です。そう考える
と、衝動コントロールが悪く攻撃的な傾向のある人が自殺行動についてもハイリスクになってしまうのはよく分かります。また小児虐待の既往と自殺行動の関連
性については、だいたい3つくらいの考え方があるでしょう。1つは、最もロマンチックな考え方で、小児期に受けた親からの虐待で心を傷つけられてしまい、
パーソナリティー形成に悪影響を与えられてしまったために、その後大きくなってから自殺行動をするような心に育ってしまったという「育ち」の問題として考
えるものです。2つめは、小児期の虐待の既往というのは、つまりは親の衝動コントロールの悪さ、衝動的攻撃傾向の強さを表しており、そのような遺伝子を受
け継いでいる可能性が高い事を示唆しているという考え方です。3つめは、幼少期からむずかりやすいなど生まれつきの気性の問題があり(こうした気性はその
後大きくなってからは衝動コントロールの問題や攻撃性の高さとして表れてくるようになるでしょう)、そのために親に虐待行動をさせやすくなっていたという
可能性です。小児虐待と精神疾患の関連、その因果関係の考え方については、また章を改めて議論したいと思いますが、少なくとも言える事は、これは親の側の
衝動コントロールの問題や攻撃性の高さを表しているということです。そして、非常に残念なことではありますが、親のこうした「好ましくない」性格傾向は、
かなりの確率でかなりの部分が、このかわいそうな子どもに遺伝してしまうのです。辛い気持ちや不幸な生き方が、どのように子どもに遺伝してしまうのか、と
いう問題はうつ病についての別の章でもまた議論しようと思います。
さて、難しいことになってきました。私たちが死ぬほど辛くなるのは、そういう環境にあるからだと思うのが普通ですし、それは多分それほど間違っていない
はずです。ですが、「遺伝と生育してきた環境要因だけで、つまりその人の生まれ育ちだけで35%〜75%が決定される」とはどういうことでしょうか?似た
ような問題はPTSDについてや、うつ病についての章でもう一度考える事になりますが、いずれにしろ、心の問題の原因とは、そんなに簡単なものではないと
いうことなのでしょう。
参考文献:
(1) Lieb R, et al (2005) Maternal suicidality and risk of
suicidality in offspring: Findings from a community study. Am J
Psychiatry, 2005; 162: 1665-1671
(2) Mann JJ, et al (2005) Family history of suicidal behavior and
mood disorders in probands with mood disorders. Am J Psychiatry,
2005; 162: 1672-1679
(3) Glowinski AL, et al (2001) Suicide attempts in an adolescent
female twin sample. J Am Acad Child Adolesc Psychiatry, 2001; 40:
1300-1307
(4) Dumais A, et al. (2005) Risk factors for suicide completion in
major depression: A case-control study of impulsive and aggressive
bahaviors in men. Am J Psychiatry, 2005; 162: 2116-2124
2章:うつ病はどうやって遺伝するのか?
古くから、うつ病、躁うつ病(現在の国際分類では「双極性障害 bipolar
disorder」という名前になっています)、統合失調症などの精神疾患は、何らかの家族性があるということが知られていました。つまり、うつ病の親の
子どもはうつ病になりやすいこと、躁うつ病の親の子どもは躁うつ病になりやすいこと、統合失調症の親の子どもは統合失調症になりやすいこと、が家族性とい
うことです。
では、家族性とはどういうことでしょうか?精神科では、よく「生まれ」か、「育ち」か、という議論がありました。家族の中にある精神疾患が起こりやすい
のはなぜかを考えた場合、「生まれ」の問題、つまり遺伝子によってその病気になりやすさが継承されていると考えるのか、あるいは「育ち」の問題、つまり何
らかの精神を病みやすいような特定の育てられ方をされたことが原因でその病気になりやすくなってしまった、と考えるのか、ということです。遺伝的・体質的
な因子なのか、生育環境的な因子なのか、です。
どういうわけか分からないのですが、私たちは何気なく「育ち」の方に原因を求める傾向があるような気がします。例えば、態度が悪い子がいると、「親のし
つけがなっていないのだ」と言われがちですし、引っ込み思案で対人緊張が高い子がいると、親が過保護に育てたからだ、と考える人が少なからずいます。実
は、精神疾患についても、ずっと以前は統合失調症や小児自閉症のような、現在では「心の病気」というよりも脳の病気と考えられているようなものまで、「生
まれ」つまり遺伝的・体質的なものではなく、「育ち」つまり早期の親子関係に問題があってそのような病気になったのだと大真面目に考えられていたことがあ
りました。
精神科の領域で、こうして「生まれ」か「育ち」かという問題は、これまで幾つかの方法でアプローチされ、研究されてきました。そのうち有名なものが、
「双子研究 twin study」と「養子研究 adaptation
study」です。つまり、こういうことです。その病気が「生まれ」による要因が大きいものであれば、「育ち」の環境が異なっていても、例えば幼いうちに
「養子」に出されて別の環境で育てられても、血縁者と同じような精神疾患を発病してしまう可能性を引き続き持つようになるはずですし、理論的には全く同じ
遺伝子を持っているはずの一卵性双生児での病気の一致率は二卵性双生児の場合の一致率よりも高くなるはずです。また「生まれ育ち」によって形成されるその
人の特性(「性格」と呼ばれてしまうもの)にはあまり関係なく、その後のストレスによって引き起こされるものであれば、一卵性双生児の2人が同じようなス
トレスを受けた場合に発病する一致率と、全く赤の他人(遺伝子的にも、早期生育環境的にも何の共通点もないような人)の2人が同じようなストレスを受けた
場合に発病する一致率とは、ほとんど同じようになるでしょうし、ということは、「生まれ育ち」の一致による寄与率が下がり、「ストレスを受けた事」の一致
による寄与率が上がるという計算になるはずです。本当の統計学的な計算はもっとずっと複雑で難しいのですが、単純化するとそんな考え方で「生まれ」「育
ち」の寄与率を計算しようという研究が数多くなされてきました。その結果、これまで「育ち」のせいじゃなかろうか、と仮説をもたれていた幾つかの疾患にお
いて、実は「生まれ」つまり遺伝的な影響を相当に受けていることが明らかになってきたのです。こうして、現在では統合失調症も、躁うつ病も、うつ病も、少
なくとも部分的には遺伝的な影響が強い疾患であることが分かってきました。
しかし、他方では、例えば統合失調症にしても、うつ病にしても、その急性期症状の発病は何らかの心理的なストレスによって引き起こされていると見られる
ことが多いことも知られていました。そして、確かに、対人関係での問題などの心理的なストレスが統合失調症の急性増悪や再発などに悪影響があること、うつ
病の発病のリスクになることなどが科学的な方法で確認されてもきました。
こうしたことから、幾つかの精神疾患について「ストレス・脆弱性モデル」という考え方が出てきました。つまり、多くの精神疾患は完全に「生まれ育ち」に
よって形成されるその人の特性(「性格」と呼ばれてしまうもの)の脆弱性だけで決定されるのでもなく、かといって環境から受けるストレスだけで引き起こさ
れるものでもなく、その人がもともと持っていた弱さがあるところに何らかのストレスが加えられて発病してくるのだろう、ということです。
うつ病もそうです。うつ病も、その人の「生まれ育ち」によって形成されてきた、その人のもともとの性格的な傾向があるところに、何らかのストレスがかか
り、それによってうつ病と呼ばれる反応が引き起こされるのだろうと考えられました。そして、幾つもの研究の結果、実際にうつ病についても「ストレス・脆弱
性モデル」はほぼ正しいのだろうと見られてもいます。
では、「生まれ育ち」をもう少し詳しく見ていった場合、「生まれ」なのか、「育ち」なのか、ということが疑問として出てきます。うつ病になりやすい性格
というものがあるのであれば、それは「生まれ」つまり遺伝によって決定されてくるのか、あるいは「育ち」つまり早期の親子関係の問題などによる生育環境に
よって形成されてくるのか?という疑問です。また「うつ病になりやすい遺伝子」というものが、もしあるのであれば、それはその人をどのようにうつ病にして
しまうというのか?という疑問もありました。この疑問に対する答えは、Kendlerらによる非常に大規模な双子研究の結果によって示され始めてきていま
す。
Kendlerらの研究結果は、うつ病の発病メカニズムについての遺伝的体質要因と環境要因との関係はそんなに単純なものではないことを示していまし
た。つまり、最も単純な考え方では、遺伝的・体質的に心が弱くストレスに対する耐性が低い人のところに、たまたま辛いストレス状況が起こってくると、うつ
病になる、というものでしょう。あるいは、遺伝的・体質的に弱い人が、たまたま運悪く幼少期に両親との間に葛藤があったり、辛い体験をするなどして生育環
境的に悪影響を受けてしまった場合、さらにストレスに対する耐性が弱くなり、うつ病になりやすくなる、という考え方でしょう。しかし、Kendlerらの
研究結果によって示されていたのは、遺伝的・体質的要因と環境要因は関連しながら「うつ病になりやすさ」を形成している、というより複雑な事実でした。
Kendlerらの研究結果が示しているのは、だいたい以下のようなメカニズムです。つまり、「うつ病になりやすい遺伝子」というものは確かに存在しま
す。その遺伝子は親も持っており、親の対人関係行動は何らかの問題を伴ってしまうことが多く、幼少期の生育環境はやや辛いことが多くなりがちです。例え
ば、両親が不仲であるとか、離婚をしてしまったとか、職が安定せず社会経済的に不利な立場になってしまったとか、そうした生育環境の問題による辛い「育
ち」の問題が生じてくる確率が上がるのです。親に対人関係行動がうまくいきにくい傾向がある場合、その問題は子どもとの関係でも生じてきますし、子どもの
方も親と同じ対人関係の問題を生じやすい遺伝的傾向(気性が安定しにくい、コミュニケーションが上手ではない、など)を持っていますから、双方向的に親子
関係はあまり十分に幸福なものにならない可能性が上がってきます。ひどい場合には小児虐待ということが生じてしまうこともあるでしょう。
こうして、遺伝的・体質的にもともと抑うつ的になりやすい気性を生まれ持っているところに、あまり幸福ではない生育環境が与えられることになり、うつ病
になりやすい性格傾向が体質要因的にも環境要因的にも形成されやすくなるのです。
さらに、こうした子どもが大人になった時の対人関係行動など幾つもの行動的な特徴が遺伝的な影響を受けるようであることも示唆されました。つまり、うつ
病のきっかけになるような「ストレス」を受けるような目にあうことも、かなりの部分遺伝的に決定される行動パターンの影響を受けており、うつ病になりやす
い人は、そのような不幸な目にあう確率の高い行動パターンをとる傾向があるというのです。
親子の間で容姿など身体的な特徴が似てくることは「遺伝」の現象として良く知られていますが、行動パターンや対人関係のあり方、精神的な特性まで「育
ち」というよりもむしろ「遺伝」によって決定づけられてくるという事実は、一般の人にはあまり知られていないようです。しかし、これは科学的な研究を通し
て確認されてきている事実ですし、うつ病などの精神疾患の家族性の原因の1つであるらしいのです。
ただ、ここでちょっと注意したいのですが、すべて遺伝によって完全に運命づけられていると考えてしまうのも間違いです。例えば、遺伝・体質的に太りやす
い人、高血圧になりやすい人、運動が得意な人、運動オンチな人、などがあります。しかし、こうした身体的な特徴が遺伝によってすべてが決定づけられてしま
うものでもないことは、お分かりになると思うのです。太りやすい人がカロリーの高い食事をすると本当に太ってしまいますが、栄養失調の貧しい食生活の中で
太ることはないでしょうし、高血圧になりやすい人でも塩分の少ない食生活をしていれば高血圧になる可能性は低くなるでしょう。両親がオリンピック金メダリ
ストだったりして、どんなに遺伝的に優秀な運動センスを持って生まれてきても、全然運動の練習をしないでいたら、たぶん一流のスポーツ選手になることはな
いでしょう。逆に運動オンチに生まれついても、人一倍努力すれば、おそらく人並み以上にはなれるのです。遺伝的な傾向とは、つまりはそういうことです。
私たちが生活している中で経験する「ストレス」には避けうるものと、どうやっても避けえないものがあります。例えば、天災の被害に遭ってしまうことは、
なかなか避けられないことでしょう。しかし、多くの対人関係のストレスは、そのような問題のある対人関係の中にいなければ良いような話でもあるので、避け
えないものではないのです。ストレスをこうして避けえるものと避けえないものとにわけていくと、「うつ病になりやすい遺伝子」を持った人は、避けえるスト
レスをより多く受ける可能性が高いこと、こうしてストレスを受けた時により高頻度にそれによる傷つきを体験し、うつ病を引き起こされやすいこと、が示唆さ
れています。つまり、うつ病になりやすい遺伝的傾向とは、不幸な目に遭ったときにうつ病を引き起こしやすい脆弱性だけでなく、そうした不幸な目に遭いやす
い「不幸な生き方」が遺伝的に引き継がれる傾向をも意味しているのです。
似たような話は心的外傷後ストレス障害の章でも見ていくことになりますが、少なくともうつ病についてのこのKendlerの研究結果が示唆していること
は、うつ病の要因として考えられている遺伝的・体質的な原因と、ストレスを受けてしまうことなどの環境的な原因は、複雑にからみあっていて、簡単にどちら
かだけに因果関係を求めることができるものではない、ということでしょう。
何だか身もふたもない話だなあ、と思われる方もいるかもしれません。「うつ病になりやすい遺伝子」を持って生まれてきてしまった人は、あたかも「悪い星
の下に生まれてきた」ように、生まれた時から「不幸な生き方」を親から引き継ぎ、運命づけられているのか・・・、と。ただ、遺伝的要因と環境要因との関係
でお話ししたように、そのように単純化して考えてしまうこともまた間違っているのです。たぶん。
参考文献:
(1) Kendler KS, et al. (2002) Toward a comprehensive model
for major depression in women. Am J Psychiatry, 2002; 159:
1133-1145
(2) Kendler KS, at al. (1999) Causal relationship between
stressful life events and the onset of major depression. Am J
Psychiatry 1999; 156: 837-841
3章:PTSDって何だ??
最近マスコミなどでもやたらと心的外傷後ストレス障害=PTSDという言葉を目にします。もともとPTSDとは、戦争や災害などで死ぬほど怖い目に遭う
など、私たちの日常生活では想定外なほどの外傷的なストレスを受けた後で起こってくる幾つかの不安症状を指すのに使われていた言葉でした。が、どうも最近
それほどのストレス要因があるとは思えないケースでも、つまり本来的には国際分類でいうところの「適応障害 adjustment
disorder」と呼ぶことの方が適切だろうと思われる病状に対しても、PTSDという名前がつけられている印象です。本来、病名というのは勝手に拡大
解釈しちゃいけないはずで、だから共通の認識ができるように国際分類(現在はICD-10というものが使われています)にしろ米国精神医学会の診断基準
(現在はDSM-IVというものが使われています)にしろ、比較的厳密に診断基準を定めて、「こういう条件に当てはまるものをこういう病名で呼びましょ
う」ということにしているのに、です。
そういういい加減な定義によるPTSDは論外だとして、そもそもPTSDとは何なのでしょう?「心的外傷後ストレス障害」という病名は、よく見るとそこ
に因果関係は意味されていないのですが、しかし普通に聞くと「心的外傷」が原因で何らかの障害を生じてしまうのだろうと思えてきます。つまり、あたかも普
通の物理的な攻撃によって身体に外科的な外傷が生じてしまうのと同様に、何らかの心理的なストレスによってどんな人でも等しく(100%の因果関係で)心
を傷つけられてしまうものだ、と考えがちです。たまたま偶然運悪く心的外傷(トラウマ)を受けてしまい、それに対する当然の反応としてPTSDを発病して
しまったと。そういう考えがあるからこそ、PTSDは身体の外傷と同じように裁判によって補償の対象となりますし、患者は一方的な「被害者」ということに
なるのです。精神科の病名の中で「PTSD」は患者が診断名を告げられる事を求める数少ない病名だと言われている理由です。しかし、事実は全然そんなに単
純なものではないことが研究によって示されてきました。
研究によって、同じような辛い状況を与えられても、PTSDを発病する人も、そうではない人もいることが分かってきました。しかも、そうしたPTSDへ
の発病しやすさ、つまり「脆弱性」は遺伝によってかなりの部分決定されるようだ、ということも分かってきました。PTSDを生じさせるような「心的外傷」
は、同じように「死の危険があるくらいに怖く、辛い状況」だったとしても、その性質によってその後PTSDを生じるかどうかの確率が大きく異なっている事
が知られており、一般に言って、自然災害など「仕方のなかった」外傷的ストレスはそれほどPTSDを起こさないのに対して、他人から襲われるなどの人為的
な外傷的ストレスはかなりPTSDを起こしやすいことが分かっています。しかし、例えば死にかけるほどのひどい交通事故の後で、PTSDを起こす確率はだ
いたい3割程度であることが分かっています。つまり、1/3の人だけがPTSDを起こすのであって、残りの2/3もの人は起こさないのです。
外傷的なストレスを受けた場合にPTSDになりやすい脆弱性として、これまでに知られてきたものに、(1)女性であること、(2)IQが低い事、(3)
もともと神経症的な性格傾向がありうつ病や不安症状などを既往として持っている事、などがありました。神経症的な性格傾向はかなりの部分遺伝によって決定
づけられる事が分かっていましたから、PTSDへのなりやすさも遺伝の影響を受けるだろうことは予測されていました。そこで、「生まれ」か「育ち」かの問
題を解決するための常套手段である双子研究 twin
studyがPTSDに関しても行われましたが、その結果遺伝的要因はPTSDの症状化の約3割を決定づけている、という結論になっていました。しかし、
その後の遺伝研究でさらに明らかになってきたのは、遺伝によって決定づけられるのは、何らかの心的外傷(トラウマ)を受けた時のPTSDへのなりやすさだ
けではなく、そもそもそのような心的外傷を受けてしまうという「不幸な運命」自体も遺伝的な影響を受けている、という事実でした。
うつ病のところでもそうでしたが、人が受けるストレスというのは、自然災害のようにほとんど避けえないものと、他者から襲われる事のように(そういう状
況さえ回避することに成功すれば)避けうるものとに分けて考える事ができます。そのように分けて双子の運命を見ていくと、避けえないストレスについては一
卵性双生児も二卵性双生児も一致率は変わらないのですが、避けうるストレス(他者に襲われてしまう、など)は一卵性双生児の方が二卵性双生児よりも一致率
が高く、つまりは遺伝的な影響を受けている事を示唆していたのです。これは一体どういうことなのか?どうやら、遺伝によってその人の「性格」のかなりの部
分が決定されるのですが、遺伝によって決定づけられる性格傾向・行動傾向の中で心的外傷を受けやすいような特質として、(1)反社会的な行動が多い(小児
の頃は行為障害的傾向、つまり反抗的で他人に迷惑をかけがちな「困った子」であること、を持っている事が多い)、(2)自己破壊的な行動パターン、自傷行
為を起こす傾向、(3)刺激的なものを求める行動パターン、(4)物事に対して嗜癖的・依存的になる傾向、などがあるようなのです。こうして、遺伝的に
PTSDになりやすい人は、PTSDを引き起こすような外傷的体験に遭うような状況にわざわざ身を置く(もちろん、意識的にじゃないのですが)ような行動
パターンをもつ傾向があること、さらにこうして実際に心的外傷の被害に遭ってしまった場合、その後PTSDを発病してしまう脆弱性も高い傾向があること、
も研究によって示唆されてきました。
何という事でしょう。またも、うつ病のところで見てきたような「不幸な生き方」の遺伝の問題が出てきました。またも、「悪い星の下に生まれる」なんてこ
とがあるようなのです。何だか身もふたもない話の雰囲気がしてきました・・・。
しかしです、PTSDになるのは遺伝の問題なのだから、犯人が被害者を襲ったことが原因で被害者がPTSDになったとしても犯人のせいじゃない、被害者
の遺伝子のせいだ、というわけにはいきません。当然ですが、ある一定以上の確率(3割以上)で被害者がPTSDを起こしてしまうことを知りながら、犯人は
被害者に心的外傷を与えたわけですから。
参考文献:
(1) Jang KL, et al. Exposure to traumatic events and experiences:
aetiological relationships with personality function. Psychiatry
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(2) Stein MB, et al. Genetic and environmental influences on
trauma exposure and posttraumatic stress disorder symptoms: A twin
study. Am J Psychiatry 2002; 159: 1675-1681
(3) Schnyder U, et al. Incidence and prediction of posttraumatic
stress disorder symptoms in severely injured accident victims. Am
J Psychiatry 2001; 158: 594-599
追加 そうは言っても、遺伝子だけで決まるものでもない・・・
これまで自殺関連行動、うつ病、PTSDと見てきた中で、どの問題も遺伝子による影響を受けているという身もふたもない話になってしまっていました。し
かし、全てが遺伝子によって決まってしまっているのでもないのです。明らかに「育ち」による影響はあるのです。
しかし科学的な方法で「育ち」を操作して、例えば「両親との関係を実験的に良くして育てられた子ども」と「両親との関係を実験的に悪くして育てられた子
ども」の比較研究などをすることは、現実問題できません。当然ですが、倫理的にそんな実験が許されるわけもないからです。そこで、人間でできないのなら、
動物で、というのがこの業界の常套手段なのですが、実際に既にネズミやサルを使ってこうした研究が行われていて、親子関係のあり方が、子どものその後の
「性格」と呼ばれる行動パターンやストレス耐性に大きな影響を与えるようであることが示唆されています。
例えば、Liuらが報告しているネズミを使った研究があります。ネズミは産まれてから、巣立つまでの間、巣の中で母親に育てられるのですが、巣の中で母
親が子どもにしてあげることは、おっぱいをあげることだけではないのです。子どもをなめてあげたり、かまってあげたりすること(これを
lick/groom行動と呼びますが)によって、子どもを大切にします。驚いたことに、母親ネズミによるこうした行動を実験的に操作していくと、幼少期
にこうしてしっかりとかまってもらい大切に育てられた子ネズミは、そういうものが少なかった可哀想な子ネズミに比較して、大人になってからストレスに強く
なるし、その子ネズミが親ネズミになった時により適切な養育行動をとれるようになることが示されています。こうした、遺伝子によらない行動パターンの継承
を、Liuらはnongenetic
transmissionという言葉で呼んでいるのですが、そういうものは確かに存在しているのです。ネズミのストレス耐性というのは、人間と同様に、か
なりの部分遺伝的傾向によって決定づけられているものでもあるのですが、こうして早期母子関係のあり方も少なからぬ決定力を持っているものでもあるので
す。
さて、するとどうなるでしょうか?確かに遺伝子的に「不幸な生き方」の傾向を持って生まれてくる人はいるでしょう。しかし、幼少期に大切に育てられるこ
とで、その傾向を軽減することが可能になるかもしれません。この辺の問題はまだ十分に人間を対象にして調べられていませんから、本当の答えが分かるのは
10年とか50年とか先になるでしょう。しかし、もしそうだとすると、例え「悪い星の下に生まれてきた」ような人であって、その後「パーソナリティー障
害」という病名がついてしまうような人であっても、科学的に有効性が証明されているような治療を受けることで、その傾向を改善することができたとしたら、
その人が親になった時に自分の持っていた「不幸な生き方の傾向」を子どもの代にまで継承してしまうことはなくなっているかもしれません。本当にそうである
と証明されるとしたら、とても良い話です。
参考文献:
(1) Francis D, et al. Nongenetic transmission across generations
of maternal behavior and stress responses in rat. Science 1999;
286: 1155-1158
(2) Shannon C, et al Maternal absence and stability of individual
differences in CSF 5-HIAA concentrations in rhesus monkey
infants. Am J Psychiatry 2005; 162: 1658-1664
4章:思い出はあわくはかなく・・・
私はある種の精神疾患に対しては、いわゆる「カウンセリング」とか「精神療法(心理療法)」と呼ばれるものを治療としてお勧めしたりします。すると時
々、精神療法(特に精神分析的と呼ばれるもの)では過去の記憶を思い出す事を主な治療作業にするだろうと考えている患者がいること、過去のトラウマ的な記
憶を思い出すことが何の意味があるのか?と疑問を訴えてくる患者がいること、があります。精神療法、特に精神分析的な精神療法では過去のことを思い出すこ
とが治療の中心になるのだ、というのはよくある誤解です。本当は、精神療法の中で行う重要なことは別にあるのであって、時々に過去の体験のことが話題にあ
がることがあったとしても、それが最も重要なことでもないのです。そして、もう1つの疑問「過去の記憶を思い出す事に何の意味があるのか?」というもの
は、もっともな話です。確かに、何の意味もないかもしれません。それに、過去にこんなことがあった、という記憶は、私たちが普通に考えているよりもずっと
不確かで、不安定なものでもあるのです。
一昔前の米国や英国で、「記憶想起療法 memory recovering
therapy」が社会問題になったことがありました。一般的に国際疾患分類で言えば「B群人格障害」と呼ばれる精神的な問題を持っている患者が、だいた
い思春期以降に特有の生きづらさを訴えて治療を求めてきたところに、当時流行りだしていた「記憶想起療法」が行われたのです。患者が生きづらさや、情緒不
安定、解離(トランス状態になったり、別人格が出てきたりする症状)、拒食や過食嘔吐などの摂食障害症状を訴えてくると、この治療の治療者は患者の幼少期
に何らかの虐待などトラウマ的な体験があったことを想定して、それを思い出すように促し、場合によっては催眠などの方法を使ったのです。すると、少なから
ぬ患者が、これまでは全く忘れていたはずの、過去の虐待のトラウマ的な記憶を思い出すようになったのです。ある患者は死ぬほどひどい身体的虐待を繰り返し
受けていたことを思い出しましたし、別の患者は実の父親からレイプを繰り返し受けるという性的虐待の記憶を思い出しましたし、また別の患者は親が狂信的に
入信していたカルト教団の悪魔的な儀式に参加させられ、レイプで妊娠させられた上に胎児を生け贄に捧げさせられたことを思い起こしました。いやあ、ひどい
親もいたもんです。というわけで、そんな親を裁判で訴えるという事例が相次ぎました。・・・ところが、です。裁判となると、当然いろいろ事実関係を確認し
ていくことになるのですが、どう調べても患者の言い分が正しいとは考えられないケースが相次ぎました。これは一体どういうことなのでしょうか?患者が嘘を
ついて親を陥れようとしたのでしょうか?
実は、患者が嘘をついていたわけでもなく、でも患者の言い分が正しいわけでもなかったのです。つまり、記憶が嘘をついていて、患者も治療者も周囲のみん
なもだまされていたわけです。
こうした現象は「偽りの記憶 false
memory」と呼ばれ、実はこうした事件が起こる前から知られていました。例えば、認知心理学者のLoftusは数多くの交通事故目撃証言を調べ、少な
からぬ証言が(記憶違いを起こしたために事実とは異なってしまうという意味で)信用できないものであることを実験的に証明していました。実際にはフロント
ガラスも割れず出血するような大怪我はなかった交通事故で、自動車のフロントガラスが割れて乗っていた人が大けがをして血を流していた、等の本当は見ても
いないし事実とは全然異なる「記憶」が目撃者の中に形成されてしまうのです。人は、頭の中に想像したイメージと、実際にその目で見たイメージとを、記憶の
中では容易に混同してしまうものだったのです。さらに、記憶は決して一度形成されたらずっと同じ形のままで頭の中にとどまっているものではなく、想起され
るたびに再形成され、形を変えていくものでもあったのです。
簡単な例として、紙に「あめ あんこ だいふく くろみつ はごたえ さとう すっぱい にがい ようかん うまい はちみつ」という言葉をバラバラに
書いて身近な人に見せて記憶してもらってみてください。紙を裏返して、しばらくしてから、どんな言葉があったかを聞いてみます。「せん」はありましたか?
「あおい」はありましたか?「あまい」はありましたか?と。かなり多くの人が「あまい」があったと答えるはずですし、場合によってはその文字までくっきり
覚えていると主張することさえあるかもしれません。説明するまでもないでしょうが、要するに被験者の頭の中には「あまい」を連想させる幾つもの食べ物のイ
メージと、「あまい」を連想させる幾つもの味覚・食感のイメージが生じてきて、「あまい」という言葉が容易にイメージされてしまい、それを実際にその目で
見たものと混同してしまうのです。
先にでてきたLoftusは、精神療法の中で患者が実際にはありもしなかった過去の虐待の記憶を思い出してしまう問題についても精力的に調べ、それが非
常に簡単に起こってしまうものであることを証明してきました。特に、治療者の方が患者の虐待体験を想定していろいろなことを質問していくと「誘導尋問」の
ようになってしまい、患者は次第に本当にそういうことがあったかのような気がしてくるのです。催眠などの方法を使うと、なおさらその傾向が強まることも知
られてきました。中には、宇宙人に円盤で連れ去られて虐待を受けたなどという、どう考えてもありえなさそうな「記憶」まで生じる事さえありました。
さらに、「記憶想起療法」では、少なからぬ患者が親を裁判に訴えたりしてしまいましたから、患者と家族の関係も(もともとB群人格障害の患者とその家族
は関係があまり良くないことが多いのですが)修復不能なくらいにボロボロになってしまうことが少なくなかったのです。そのうえ、その治療を受けた患者は受
けなかった患者に比べて明らかに病状が悪化し、より入院や自傷行為・自殺企図などの問題行動が増えてしまう傾向があることが分かってきた事もあり、その後
「記憶想起療法」の流行は大きく衰退してゆき、今ではほとんど消滅したようではあります。(もともと良識ある精神療法家は、そんな安易な治療手段をとらな
かったでしょうが。)ただ、こうした経緯があったため、Loftusの名前は患者の過去のトラウマに焦点づける治療をする精神療法家からは非常に嫌われる
ようになってしまったとも言われています。しかし、Loftusの言っている事は、ある特定の方法によって人には「偽りの記憶」が誘導されがちである、と
いう事実でしかなく、多分それ以上でも以下でもないのです。患者の中には確かに幼少期に虐待を受けた人は少なからずいるでしょうし、そうした訴えが全て
「偽り」だということでもないのです。
「偽りの記憶」の問題は、何も「記憶想起療法」の中でだけ生じてくるものでもありません。例えば、心的外傷後ストレス障害PTSDの有名な症状の1つに
「フラッシュバック」というものがあります。過去のトラウマ的な体験がふいに襲ってくるように視覚的イメージを伴って思い出されてしまう、というもので
す。一般の人の多くは、この「フラッシュバック」は、過去に実際にあった出来事の光景が網膜に焼き付いているかのように残っていて、何かのきっかけで思い
出されてしまうのだと考えがちです。しかし、「フラッシュバック」体験で目の前に迫ってくる光景は、必ずしも患者が本当にその目で見たイメージであるとは
言えないのです。その体験をしたことに関連して「最も嫌な想像をした」イメージも含まれているのです。
別の例をあげてみます。自分自身の子どもの頃の記憶を思い出してみてください。もう古すぎてセピア色になっているような記憶です。その光景に「自分自
身」は写っていますか?そうなのです。私たちが自分の目で見た光景であれば、自分自身が写っているわけはないのです。しかし、非常に多くの人の記憶のイ
メージには、自分自身が写っています。記憶は、その目で見たことがそのまま残っているのではなく、何度も何度も想起される度に再構成されるからです。
ところで、「偽りの記憶」を生じやすい人と生じにくい人がいることが分かっています。どういう人が生じやすいのかというと、どうやら、解離を起こしやす
い人や、前頭前野機能が低い人などが生じやすいようなのです。こうなってくると問題が複雑化します。というのも、過去の虐待歴が問題になる人は、えてして
B群人格障害であったり、解離性障害であったりするのですが、これらの疾患では前頭前野機能が低かったり、解離を生じやすい傾向があることが分かっている
からです。実際、解離性障害の一種として、その症状の派手さから有名な「多重人格」は、相当数のケースで幼少期の身体的虐待や性的虐待があったと報告され
ています。しかし、そのほとんどが患者本人から聴取した「記憶」をもとにしているのです。その「記憶」が信用できないものであるとすると、これらの所見は
実像なのか虚像なのか分からなくなるのです。
そうなってくると、もうそうしたトラウマ的な出来事の報告が実際に起こった事実だったのか、あるいは「偽りの記憶」の作り出した虚像にすぎないのか、そ
ういうことを考える事自体が何だかすごく無駄なことのように思えてきます。もう100年以上も前に、精神分析の創始フロイトが解離などの症状がある患者を
対象に、過去の記憶を想起させることをしていたところ、やはり「偽りの記憶」の問題にぶつかりました。最初は、彼も患者の訴える記憶を信じて、本当に幼少
期にトラウマ的な体験をしたことが原因で心を病んでしまうのだろうと考えたのです。これが彼の最初の頃の神経症の心因論で「心的外傷説」と呼ばれました。
ところが、彼も幾つかのケースを見ていく中で、どう考えても患者の訴える出来事が実際にあったとは思えないものが出てきたのです。そのため、彼は考え方を
変え、患者の訴える「記憶」が事実であったのか、あるいは患者が想像した「空想
fantasy」にすぎないのか、そういうことを追求するのはやめよう、ということにしたのです。事実かそうではないことなのかが重要なのではなく、患者
の心の中ではそれは事実と同じくらい大きな意味合いを持っていることが重要なのだ、と。実際、そうなのでしょう。
参考文献:
(1) Loftus EF. Repressed memory accusations: devastated families
and devastated patients. Applied Cognitive Psychology 1996; 11:
25-30
(2) Winograd E, et al. Individual differences in susceptibility
to memory illusions. Applied Cognitive Psychology 1998; 12: S5-S27
(3) Watson JM, et al. Individual differences in susceptibility
to false memory in the Deese-Roediger-McDormott paradigm.
Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition
2005; 31: 76-85
(4) Schacter DL. Searching for Memory. Basic Books, 1996
5章:「精神障害者」は暴力的で犯罪を起こしやすいのか??
ニュースなどで動機のよく分からないおかしな暴力・傷害・殺人事件などが起きて、犯人は「精神病院に通院中でした」と報道されるたびに、またか、という
感じになっています。一般の人には、「精神障害者」は犯罪を起こしやすい、危険でやっかいな人たちなのだという印象があるかもしれません。実際に、最近に
なって精神障害者の「脱施設化」、つまり症状がほとんどなくなり、いわゆる「寛解」という状態になっても家族などが退院後の引き取りを拒否していたために
「社会的入院」になっていた患者をグループホームなどに住まわせる事で退院につなげていこう、という動きのあるなかで、そうした精神障害者の居住施設を建
設するとなると、地域住民の反対運動がどこでもかなり強くあります。その理由のほとんどが、「精神障害者は危険だから」というものです。では、科学的に見
て、「精神障害者は(健常者と比較して)危険でやっかいな人たちだ」と言えるのでしょうか?そして、本当に危険だとすると、それはどれほどの重みがあるこ
とで、どういう意味があるのことなのでしょうか?「精神障害者」というと大ざっぱすぎますから、より具体的にはどういう種類の人たちがよりリスクが高く、
どういう人たちはそれほどでもないのでしょうか?そもそも、暴力性・犯罪性と「精神」つまり、脳の機能の関係はどうなっているのでしょうか?
私が学生の頃は、精神医学の授業で「精神障害者の暴力性・犯罪性のリスクは一般健常者に比較してほぼ同じである」という内容で教えられていました。ふー
ん、意外だねと思ったものですが、その後医者になってちゃんとした研究の結果を見ていくようになると、実はその説は全くの間違いであることに気付いてきま
した。これは一体どういうことなのか?医学生は間違ったことを教えられていたのか?というと、別に故意に間違ったことを教えていたのではなく、その当時は
本当にそう考えられていたようなのです。しかし、1980年代以降、しっかりとした疫学的調査が欧米で行われるようになり、統合失調症を含めて多くの精神
障害が暴力性・犯罪性と無視できない関連性があることが示されてきたのです。(このような疫学的研究は、地域住民を全て国民総背番号制のように登録し、
10年も20年も追跡調査をしていく大変に大掛かりなものであるので、少なくとも私の知る限りでは、日本の国内ではちゃんとした研究はできていません。今
後、医学は遺伝子の研究成果が非常に重要になってくることが予想されるので、私などは国家戦略として国民総背番号制を早く導入し、遺伝子から病歴からすべ
て巨大なデータベースに登録するようにして研究の材料にしていかないと、とてもこれからの医学・薬学分野での国際競争に勝てないのじゃないだろうか、と
思ったりするのですが、こういうことは反対する人がすごく多いので、日本では難しいでしょう。)
さて、いきなり「精神障害者の暴力性・犯罪性のリスクは一般健常者に比較してより高いと言える」というショッキングな、身もふたもないことを言ってし
まったので、ここから少し詳細な説明に入ろうと思います。
欧米などで行われた、大規模な疫学的研究の結果分かってきたのは、まとめると以下のようなものになります。(1)精神障害者を十把一からげに見ると、健
常者よりも暴力性・犯罪性のリスクが高いと言える、(2)しかし、「精神障害」とひとまとめにせず、1つ1つ見ていくと暴力性・犯罪性のリスクは大きく違
い、物質乱用(覚せい剤、麻薬乱用・依存など)が最も高く、続いて人格障害(特に反社会性人格障害、境界性人格障害、自己愛性人格障害などのB群人格障
害)、そこから大きく離されてうつ病、躁うつ病などの感情障害、統合失調症、などが一般健常者よりはリスクが高い、(3)よく話題になる統合失調症の暴力
性・犯罪性のリスクは一般健常者の約2倍から4倍程度と見積もられている、などです。
どうも日本では、精神障害と暴力性・犯罪性の話題はややタブー感があって、まともに研究されている感じもありませんが、科学というのはそんなことじゃい
けないでしょう。米国などでは、この問題を結構大真面目に研究しているものが幾つもあり、その中に「マッカーサー暴力性リスク評価研究」という大規模な研
究があります。これは精神病院を退院した後の患者の行動を追跡調査しているものですが、、1年間の追跡調査の結果暴力の発生率は、物質乱用の患者では
29%と圧倒的に高く、続いて人格障害の25%、さらに続いてうつ病の19%、統合失調症の17%、躁うつ病の15%、などとなっています。(「マッカー
サー研究」は精神病院に入院することになった、いわば病状の重い人が対象になっており、しかも退院直後からの追跡調査というように、リスクの高そうな期間
を見ています。ということは、入院する必要のない、病状が比較的軽い人の場合は、リスクはもっと低くなるはずです。実際、別の疫学的調査によると、一般社
会で普通に生活している統合失調症の患者が暴力を起こす発生率は8%であり、一般健常者が2%であることに比較してだいたい4倍程度のものとなっていま
す。)
つまり、一般の人には意外に思えるかもしれませんが、その他の精神科疾患の患者に比較すると、統合失調症の患者の暴力性のリスクは低い方になるのです。
(実際、日本の精神病院などで入院患者が暴力などのトラブルを起こすのは、圧倒的に覚せい剤や麻薬、アルコール依存症などの物質乱用系の患者であり、続い
て境界性人格障害などの人格障害系の患者である印象があります。そのため、統合失調症の患者に比較するとトラブルを起こしやすいこれらの患者は入院治療を
嫌われる事が多く、「受け入れお断り」状態になっている施設も少なくありません。専門施設が存在するのも、たぶんそんな事情です。しかし、多くの精神病院
では、このように疾患の種類によって「受け入れお断り」を決めているのではなく、過去の犯罪歴によって「お断り」としているところもあります。実際、欧米
で行われてきた暴力性リスクの評価研究では、疾患の種類よりもむしろ、過去が犯歴があるという事実的な要素の方が圧倒的に強く暴力行為の予測因子になるこ
とが示されてもいるのです。)
さらに、「マッカーサー研究」では、もう1つ面白いことが分かりました。よく統合失調症の患者が暴力事件などを起こすのは、幻覚妄想に左右されてのこと
だろうと思われがちなのですが、患者に暴力を指示するような幻聴や妄想があるかどうか、ということは暴力性のリスクにあまり関係なさそうだということが示
されたのです。患者が暴力事件を起こすかどうかということは、どうやら、健常者と同様に、病気の内容や種類によって決まってくるよりもむしろ、その人の
「性格」による部分の方が大きいようであり、健常者においてそうであるのと同様に、女性よりも男性、社会経済的地位が高い人より低い人、犯歴のない人より
も犯歴のある人、というような要因の方がリスク要因としてはより強いことが分かってきました。「性格的な傾向」について言うと、統合失調症において暴力性
と密接な関係がある性格傾向というのは、どうやら、他人に対して概して被害的、猜疑的であって、世の中全般を恨みがちな性格を持っているという傾向のよう
です。
そんなわけで、まとまると大体以下のようになるでしょう。(1)精神障害者一般は健常者一般に比較して暴力性・犯罪性のリスクは高いとは言えるし、よく
話題になる統合失調症についても健常者の4倍程度のリスクはあると言える、(2)しかし、暴力事件・犯罪全体の中で精神障害者というマイノリティーが起こ
す問題は非常に少なく、リスクとしては性別(女性よりも男性であること)、社会経済的なレベル(社会経済的レベルが高い人より低い人)、過去の犯歴の有無
(過去に犯歴のない人よりある人)、などの因子の方が圧倒的に強い、(3)だから暴力や犯罪を犯しそうな人を排除することによって地域社会の安全を求めよ
うとするのであれば、精神障害者を排除しようとするよりも、男性であり、社会経済的なレベルが低く、過去に犯歴のある人を徹底的に排除することの方がずっ
と効果的であると言えるであろう、ということになります。これはこれで、何だかちょっと身もふたもない話ではあるのですが。
さて、それでは精神障害において暴力性・犯罪性のリスクがあがるとはどういう訳なのでしょうか?暴力性・犯罪性と脳の機能の関係はどういうことなので
しょうか?それをこれから少し見ていきます。
暴力性の問題は、「精神疾患」という観点とはまた別の方向性からいろいろ研究されてきました。その中で、近年になって分かってきたのは、前頭前野機能の
問題です。人間の大脳皮質の前の方の部分に「前頭前野 prefrontal
cortex」と呼ばれるところがあるのですが、この部位は人間が人間らしく生きていくのに必要ないろいろな機能に関連しているようであることが分かって
きました。これには、物事を適切に認識し、判断し、柔軟性を持って順序良くてきぱきと行動していく能力や、対人関係で自分の気持ちや相手の気持ちを的確に
とらえて対応していく能力や、怒りや衝動性を適切にコントロールしていく能力などが含まれます。最近の脳機能の研究によって、この部分の機能が落ちている
と衝動コントロールが悪く暴力的な傾向になりがちなことや、人が暴力を振るうときにはこの部分の機能が一時的に落ちる傾向があることなどが分かってきたの
です。
例えば、反社会性人格障害の患者など、もともと衝動性が高く暴力傾向のある人たちを対象に脳血流を測る機械を使って脳の各部位がどの程度しっかり働いて
いるか、働いていないかを調べる実験がありました。脳は使われている場所には血流が増え、使われていない場所には血流が減るという大変効率の良い省エネシ
ステムがあるので、脳の各部位の血流量を測ることで、その部位がどの程度使われているかを推測することができるのです。この実験の結果、やはり衝動性のコ
ントロールに問題があり、暴力傾向のある人では、健常者に比較して、前頭前野の血流量が低いこと、つまり、前頭前野があまり使われてない傾向があることが
示されたのです。また、別の研究では健常者を対象にイメージ実験を行いました。実験では、脳血流を測る装置に入った状態で、被験者に以下のような場面をイ
メージしてもらいます。1つ目の場面では、母親と一緒にエレベーターに乗っていたら人相の悪い男2人組が乗ってきて、母親に暴力を振るった。しかし、我慢
した、という内容です。それに対して2つ目の場面では、母親とエレベーターに乗っていたところ悪い男達が母親に暴力を振るい始めたところまでは同じなので
すが、その後が違って被験者は反撃をイメージすることが許され、相手の男達を半殺しにするまで殴り続けて良いことになっています。こうしたイメージを見て
いる間に脳の血流を測定したところ、1つ目の状況(暴力を我慢する)では前頭前野が比較的しっかり働いていたのに対して、2つ目の状況(我慢しないで暴力
を振るいまくる)では前頭前野の血流がぐっと低下し働きが悪くなったことが観察されたのです。
つまり、人は暴力を振るう状況になると、脳の働きのうち、衝動をコントロールする機能や相手の気持ちを思いやる機能などを一時的に低下させ、暴力を振る
いやすくするようなのです。逆に、もともとこの機能が弱い人たちは、そうでない人に比べて計画性にかけ、人に対する思いやりや配慮にかけ、衝動的に暴力を
振るいやすい傾向が出てくるわけです。
さて、ではこの脳の機能の問題と精神疾患がどのように関係するかという問題です。実は、幾つかの精神疾患において前頭前野機能が低下する傾向があること
が分かっているのです。統合失調症でもそうですし、人格障害でもそうですし、物質乱用・依存などでもそうなのです。程度こそ違いはありますが、これらの疾
患においては、前頭前野機能の低下の反映であろうと思われる、(1)衝動コントロールが悪く、物事の計画性に乏しく、要領の悪い行動パターンをしがちな傾
向があること、(2)対人関係において自分自身の気持ちや相手の気持ちを的確にとらえ、十分な共感性を持って関わりを持っていくのが困難になりがちである
こと、(3)やる気やモチベーションを維持することに困難がありがちなこと、などの症状がある点で共通してもいます。前頭前野の機能が低いと、イライラし
た時の衝動コントロールが悪く暴力的になりやすいだけでなく、対人関係行動が要領良くできないことが多いため対人関係でトラブルを生じがちになりますし、
さらにそうしたトラブルを柔軟性を持って思慮深く解決していくことが困難になるので、つい暴力的な解決(いや、本当は全然解決にならないどころか、問題を
深刻化させてしまうのですが)をしようとする傾向が強まるのです。
しかしです、前頭前野機能の低下には「程度の違いはある」と言いましたが、確かに程度の差があり、病気の重症度にもよりますが、一般に統合失調症患者が
最もその程度が重く、続いて物質乱用・依存系の患者、人格障害の患者、というようになるでしょう。では、比較的暴力性が低いとされている統合失調症の患者
が前頭前野機能が比較的重いのはオカシイじゃないか、という議論も出てきそうです。これに対する答えは、幾つかありそうですが、まだ十分な科学的根拠をも
とに理由を完全に説明できるほどにはなっていないでしょう。ただ、統合失調症の場合、前頭前野機能の低下という問題が、意欲の低下という大きな症状につな
がり、そこにこの疾患独特の対人不安の症状がかぶさり、少なからぬ患者が対人関係を避けて引きこもる傾向を示してくるのです。このため、例え前頭前野機能
の低下による衝動コントロールの悪さの問題があったとしても、暴力を生じさせるような状況に入りにくいことにもなっているのでしょう。実際、前頭前野機能
の低下症状が著しく、精神病院に長期入院になってしまっている重症の慢性期統合失調症の患者は、病院に入院しているために引きこもりようがなくなっていま
すので、そこに介護者や看護者が不用意に踏み込みすぎてしまうと、突発的な暴力行為に出てしまうことが少なからずあります。「引きこもり」というと、何か
あまり良くないことのように見られがちですし、多くの場合精神科医療としてもそのように考えるものなのですが、こうして考えてみると、ある意味では自分を
守り、自分と関わる他人を守ろうとする適応的な反応かもしれないとも思えてきたりして、すこし複雑です。
さて、精神疾患と暴力性・犯罪性の問題はちょっと複雑になってきました。統合失調症を例に見てみても、暴力性・犯罪性が統合失調症に特有の幻覚・妄想に
はあまり関係がない、ということや、むしろ衝動コントロールの悪さの問題や世の中全般に対する不信感・敵意のような「性格的」な要素の方が大きい、という
ことを考え合わせると、「統合失調症だから・・・」という議論の仕方はオカシイということになってくるかもしれません。この議論を進めると、精神疾患が
あって善悪を判断できないような病状の場合は、「責任能力を欠いている」ということで刑事罰を問われない、という現行の法律システムは本当に妥当性がある
のか?という議論に行き着きそうですが、その議論はまた別に追加の章で扱おうと思います。
参考文献:
(1) Walsh E, et al. (2002) Violence and schizophrenia: Examining
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(2) Appelbaum P, et al. (2000) Violence and delusions: Data from
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2000; 157: 566-572
(3) Nestor P. (2002) Mental disorder and violence: Personality
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(4) Pietrini P, et al. (2000) Neural correlates of imaginal
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subjects. Am J Psychiatry, 2000; 157: 1772-1787
精神障害者の暴力性と犯罪性: 追加 「責任能力」って何だ??
実は、「責任能力」とは法律用語であって精神医学の用語ではありません。法律では、犯罪を起こした者が、故意にそうした行為をした場合は罰するけれど
も、故意ではなかった場合には罰しない、その行為がいけない事だと分かりながらやっていた場合には罰するけれども、それが分からずにやっていた場合は罰し
ない(あるいは減刑する)、という考え方があるようです。以下は日本の刑法からの引用です。
「(故意)
第38条 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。
(心神喪失及び心神耗弱)
第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
ところが、です。例えば、「罪を犯す意志」という簡単な言葉にしても、精神科的にはいろいろな問題があります。要するに、自分がやっている行動がいけな
かったり、危なかったりすることを分かっているのか?ということです。しかし、精神症状の1つに「解離」というものがあります。つまり、トランス状態に
入ってしまうことです。時々、このトランス状態のもとで、万引きや暴行・傷害などの犯罪行為を起こす人がいます。多重人格などでは、結構そういうことがあ
ります。この場合、本人の意思の及ばない、別人格にトランスしているのだから、本人に「罪を犯す意志」がなかったと言えるでしょうか?トランス状態につい
て、非常に興味深いのは、それは決して本人の意思が一切働かない状態ではない、ということです。例えば、催眠術を使うと普通の人でもトランス状態に入る事
ができます。催眠術師は被験者に対していろいろな指示を与えて、その通りの行動を起こさせる事ができるのですが、しかし、被験者は何でもかんでも催眠術者
の言いなりかというと、そんなこともないのです。例えば、自分自身に危険な事やいけないことは指示を与えてもしないものなのです。本人が本当にしたくない
ことは、しないようにできているのです。あるいは、精神障害においては精神的なストレス下で強い混乱を起こしてしまい、自分の行動を冷静に考える事ができ
ず、衝動的で危険な行動に出てしまうことがあります。その時にしてしまった行動について「罪を犯す意志」があったのか、なかったのか、という議論は馬鹿げ
ているように私には感じられます。「あったのか」「なかったのか」というように白黒はっきり二分化できるものではないからです。
議論を簡単にするために、精神遅滞(知的障害)を例にあげてみます。精神遅滞では、知能が低いために、物事の意味が十分には分からず犯罪行為を起こす事
があるでしょう。しかし、「いけない事だと分かっていたのか、いなかったのか」という問題は、白黒つけられるものでしょうか?そういった判断ができるかど
うかが、知能が低い事によっているのでしょうが、知能は「健常者」と「知能の低い人」に二分化できるものではなく、IQによって計測することができる連続
線上にあるのです。「知能の低い人」が物事の善悪の判断ができないだろうから、という理由で罪を問わない、あるいは減刑しようというのであれば、極論する
と、「健常者」に求刑すべき罪の重さに、その人のIQをかけて100で割る、ということをしていかないと論理上の矛盾を生じてしまいます。そうすると、犯
罪を犯してしまった場合、普通の人よりIQが高い人は、「健常者;IQ=100」向けに定められた刑よりも、IQが高いからという理由だけで、重い刑事罰
を受ける事になってしまうわけです。それは変な話でしょう。
幻覚妄想を伴う精神病状態にある、というと、一般の人は責任能力がないのだろうと考えがちでしょう。しかし、前の章で見てきたように、暴力や犯罪を起こ
してしまうかどうかは、幻覚や妄想といった精神病症状の有無にあまり関係なく、それよりもむしろその人のもともとの性格傾向に関係がありそうなのです。幻
覚妄想があって、周囲の人たちからひどい被害にあっていると思い込んでいる患者の多くは、だからといって「敵」と見なしている人を襲って殺してしまおうと
判断はしないのです。考えてみれば、そりゃそうです。私たち健常者が何かの陰謀に本当に遭ってしまい、常に嫌がらせを受ける事になってしまったとしても、
だからといってその相手を殴りに行くとか、殺しに行くとか、そういう行動にでることはあまりなさそうでしょう。普通は警察に相談したり、それも当てになら
ないときは逃げるという方法をとるでしょうから。しかも、精神障害者における「善悪を判断する能力」も、知的障害の場合と同様に、白黒つけられるものでは
なく、健常者との連続線上にあるはずです。
私は時々法律の世界はひどく非科学的、非論理的だなあ、と思う事があるのですが、この問題もそんな気がしています・・・。
6章:なぜ精神障害者の一部は人間嫌いになってしまうのか?
精神障害と暴力性・犯罪性のところで、精神障害者の一部に暴力性・犯罪性が高くなってしまう要因として、幻覚妄想の内容よりもむしろ、その人の衝動コン
トロールの問題だったり、全般的な社会に対する敵意や不信感などの「性格的」とも言える性質の方がより重要でありそうなことを議論してきました。このう
ち、衝動コントロールの問題は、多くの精神障害にともなって見られる前頭前野機能の低下という問題に関連して考えることができることも議論しました。で
は、社会全般に対する敵意や不信感といった「人間嫌い」な傾向はどうして生じてしまうのでしょうか?
1つには、例によって遺伝的・体質的傾向としてもともと攻撃性が高く、他者に対して敵意を持ちやすい気性の人であった可能性はあります。しかし無視でき
ないもう1つの可能性として、幼少期から育ってくるまでの間に、対人関係で嫌な思いをすることが多いために、すっかり人間嫌いになってしまうことは、十分
ありうることだとも思うのです。
よく知られているのは、ADD・ADHD、つまりよく「多動児」と呼ばれる子どもや、自閉症的傾向を持った軽度発達障害の子どもが、幼稚園や小学校の頃
からずっと対人関係で不適応を起こしがちだということです。子どもの世界には「精神疾患」なんて概念はないでしょうし、理解もできないでしょう。にも関わ
らず、これらの精神疾患を持った子どもは差別され、イジメの対象にされてしまうことが多いのです。よく精神疾患を嫌う大人の「偏見」は精神疾患についての
間違った理解やセンセーショナルな報道の仕方に問題のある「誤解」に基づいている、と論じる人がいますが、子どもの世界でのこうした現象を見ていると、本
当はそんな単純な問題ではなく、もっと生得的・本能的な部分から私たち人間は自分とは違う異質な存在や「精神疾患」を嫌ってしまう傾向を持っているのでは
ないかと思えてしまいます。いずれにしろ、軽度発達障害の子どもたちは悪気があって周囲の子どもたちから嫌われる行動をするわけでもないですし、周囲の子
どもたちは悪気があって軽度発達障害の子どもを嫌うのでもないのです。だから、この種の差別やイジメは解決が難しいのですが、事実としてこうした対人関係
のトラブルは起こりがちなものなのです。
さて、子ども時代からずっと対人関係がうまくいかず、いじめられたり集団から嫌われたりしてきた体験を持ってしまった場合、当然その子の自尊心・自己評
価は低くなるでしょうし、集団に対する恐怖心や、漠然とした人間嫌い傾向が生じてきてもおかしくないでしょう。実際、親はよく自分の子どもに何らかの発達
障害的な問題があり「特殊級」を勧められると(親自身の見栄や体裁のために)拒否しがちなものなのですが、その子にあった教育訓練を受けさせる上でも、ま
たイジメやその他の避けうる対人関係上のトラブルを回避し、将来人間嫌いで社会に対する不信感や嫌悪感をもちがちな大人になってしまうことを避けるために
も、親はこうした問題をよく考えた方が良いだろうと思うのです。
では、発達障害の子どもではなく、統合失調症などの精神障害の場合はどうでしょうか?子どもの頃から行動にやや粗暴性があったり、他者に対する思いやり
に欠けていたり、集団のルールを守れなかったり、いろいろな意味で「困った子ども」でありがちな子どもを「行為障害 conduct
disorder」という精神障害名で呼びます。この行動パターンは、大人になってからの「反社会性人格障害 antisocial
personality
disorder」に似ていることもあって、ずいぶん以前から小児の「行為障害」と大人の「反社会性人格障害」の連続性は指摘されていました。小さいころ
頃から「悪い子」だった子どもは、大きくなっても「悪い人」になる、という非常に単純で分かりやすく当たり前の推測です。ところが、小児期の「行為障害」
の患者を追跡調査していくと、確かに大人になってから「反社会性人格障害」や、それと関連性の強い覚せい剤やアルコールなどの「物質乱用」という精神障害
に移行していく人も多いのですが、統合失調症などの「病気」として認識されがちな精神疾患になっていく人もいることが分かってきました。
さらに、ヨーロッパで行われた追跡調査によるこんな研究結果があります。子どもの頃の給食時間の風景をビデオカメラにおさめておき、その20年後、子ど
もたちが大人になってから統合失調症を発症しているかどうかと、ビデオカメラの中に見られる対人関係行動の問題を検討してみたのです。すると、大人になっ
てから統合失調症を発症する人は、子どもの頃から対人関係行動がやや特殊で、集団になじみにくく、適切な対人関係行動をとりにくい傾向があることが示され
たのです。
一般に、子どもの世界では、対人関係行動がうまくとれず、集団になじみにくい子どもは嫌われたりいじめられたりする傾向がありますから、将来統合失調症
を発症してしまうリスクを抱えた子どもは、小児期から子どもの世界の中で嫌われたりイジメを受けたりするなど、ネガティブな対人関係経験をしてしまうこと
が容易に想像できます。それがずっと続いてしまうと、当然、その子の自尊心・自己評価は傷つき低下してしまうでしょうし、世の中全般に対して不信感や恐怖
心・敵意を持つようになってしまっても不思議ではありません。
私はふだんの診療の中でよく軽症の統合失調症の患者に会いますが、患者のほとんどはひどく自尊心が低く「自分が嫌いです」と言います。また「周囲のみん
なが自分のことを悪く思っている」「悪口を言われている」などの被害妄想を訴えてくる統合失調症の患者は多いのです。こうした訴えは単純に(根も葉もな
い)被害妄想だとか症状だと言ってしまえばそれまでのことなのですが、彼らが育ってきて現在に至るまでに経験したであろう対人関係でのネガティブな体験を
想像すると、全く根も葉もないつまらない妄想だ、と言うわけにもいかない気もしてしまいます。
さて、ここからが相当身もふたもない話になってきます。子どもの世界では対人関係行動がうまくとれず集団になじみにくい子どもは嫌われたりいじめられた
りしがちだと言いましたが、こうした傾向はなにも子どもの世界だけに限ったことではないでしょう。つまり、「健常者」によって大部分が構成される大人の世
界においても、対人関係行動がうまくとれず集団になじみにくい人は軽べつされたり、嫌われたり、いじめられたりして、何らかの形で疎外され遠ざけされる傾
向はありそうです。子どもの世界にも、大人の世界にも共通して見られるこうした行動パターンは、おそらく教育や知識によるものではなくて、もっと生得的・
遺伝的に決定されている本能的な行動パターンなのであろう、と思われます。それが生得的・遺伝的に私たちの中に備わっているとしたら、そこに何らかの進化
論的な意味合いがありそうです。つまり、遺伝子の中に「対人関係行動がうまくなく、集団になじみにくい人たちを排除するような行動パターンを持っている」
人たちが、そういう行動パターンをコードする遺伝子を持っていない人たちに比較して、生存競争上有利であり、より確実により多くの自己複製の遺伝子を次世
代に伝えることができたのだろう、と仮定することができるのです。そして、人類がその歴史の大部分を過ごしたであろう原始時代に思いをはせて少し考えれ
ば、そりゃあそうだろう、と思えてきます。
最近になって精神障害者に対する偏見をなくそう、というアンチスティグマ運動がさかんになってきました。必要なことでしょうし、好ましい動きではあるで
しょう。しかし、もし遺伝子によって決定されている私たちに生得的な行動パターンを相手にしているのだとしたら、そう簡単には行きそうもないことが予測さ
れてしまうのです。
参考文献等:
(1) Schiffmann J, et al. Childhood videotaped social and
neuromotor precursors of schizophrenia: A prospective
investigation. Am J Psychiatry, 2004; 161: 2021-2027
7章:統合失調症ではなぜ幻覚妄想が起こるのか?その進化論的意味合い
精神科と動物行動学
ethologyは近い関係にあると私は思っているのですが、動物行動学の考え方の基本には進化論があります。つまり、動物がある特定の行動をする傾向が
あるのは、その行動に何らかの進化論的な優位性があるからであり、そのような行動傾向がある遺伝子を持つものの方が、それを持たないものに比較して、生存
競争上有利であり、多くの自己複製の遺伝子を残せたからだ、という考え方です。例えば、ある種の動物には利他主義的な行動があります。親鳥はひな鳥が狙わ
れている状況では、自分が怪我をしたふりをして敵を引き寄せ、自分の身を危険にさらしてひな鳥を守ろうとするのです。なんとも泣かせる話ですが、私たちの
感情でいう「愛情」と同じ気持ちを鳥が持っていてそういう行動をするわけでもないのでしょう。おそらくは「本能的」にそうした状況下でそうした行動が発現
するようにプログラムされているだけなのです。(実を言うと、私たち人間の高等な感情である「愛情」も似たようなものであり、ある特定の状況下で、特定の
利他的な行動をする確率を上げるような特定の精神状態が発現するようにプログラムされているだけ、というのが事実なのでしょう。そのプログラムの発現を、
私たちの主観は「愛情」という情緒として体験する、ということなのでしょう。「愛情」を始めとして、情緒
emotionとは何なのか?という議論は大変面白いのですが、あまりに長くなりすぎるので、ここではここまでにします。)ただ、生き物というのは自分の
命を守ろうとする利己的なものであるのが普通なので、自分の命を犠牲にして誰かの命を守ろうとするのは、生き物の行動原則に反するような気もしないでもな
いのです。これは生き物がその個体の生存を最優先に考える意味で利己的だと考えると合点がいかないのですが、生き物がその遺伝子の継承・存続を最優先に考
える意味で遺伝子的に利己的だと考えると合点がいくのです。つまり、子どもが危険な目にあった時に自分の命を危険にさらしてまで子どもを守ろうとする行動
を遺伝子的にプログラムされている鳥の方が、そういう行動パターンを持たない鳥よりも、より高い確率で子どもに託した自分の遺伝子を存続させることができ
るでしょうし、こうしてそういう行動パターンを持った遺伝子は継承され、増えていく・・・と考えるわけです。(これが「利己的な遺伝子」の基本的な考え方
です。遺伝子は、自己複製を数多く残すことのみを最優先にしますので、そのためには遺伝子の持ち主が痛い目に遭おうが、不幸になろうが、遺伝子の自己複製
の優位性的にはOKなのです。ただ、私たちは遺伝子的に最も適切な行動パターンを「幸せ」と感じるようにプログラムされ、こうして遺伝子的に最も適切な行
動パターンを選択するようにできているはずですから、多くの場合では遺伝子の自己複製の優位性と個人の幸せは一致するはずではあるのです。だから、子ども
を守るために自分の命を犠牲にする親鳥は誇りを持って幸せに死んでいくのでしょうし、そうした行動をする自分を「幸せ」だと感じていることでしょ
う。・・・ただ、例外はあるでしょう。)
さて、そう考えると、一見何の役に立っているのかよく分からないような行動パターンや、一見その人にとって不幸なだけに見える行動パターンでも、何らか
の進化論的な優位性があるから遺伝的特性として継承されてきたのだろうと思えてきます。これまでの章で、自殺の問題やうつ病の問題を見てきて、そこに遺伝
的な傾向がかなり強くからんでいることを議論してきました。自殺したくなる遺伝子や、不幸な生き方の遺伝子なんて、普通に考えたら何の得もないような気が
します。遺伝子の持ち主にとって不利なだけ、不幸なだけな気がします。しかし、そうした遺伝子が人類の歴史の中で代々残ってきているからには、何らかの進
化論的な意味合いがあって、そういう行動的・精神的特質を持っている人は、何らかの点で普通の人よりも優れていて、何らかの点でその遺伝子を次代に継承す
る上での優位性があったのかもしれません。
さあ、統合失調症についてはどうでしょうか?実はこの問題はずいぶん以前からいろいろな推論をされていました。幻覚妄想があって、一見「神懸かり的な
人」は原始社会の中では預言者とかシャーマンのような特別な役割があって重宝されたのではないか。統合失調症の人は痛みなどに強いことが分かっているの
で、そうした物理的な「打たれ強さ」が生存競争上有利だったのではないか。などなど根拠も希薄で本当に推論でしかないような説がたくさんありました。
でも統合失調症の患者を実際に見れば分かると思うのですが、これは明らかに病気であり、不具合だと考えるべきでしょう。幻覚妄想などの「陽性症状」もあ
りますが、より困ってしまう問題として意欲の低下や物事をてきぱきと処理する能力の低下など、いわゆる「陰性症状」の問題の方が社会生活をしていく上でよ
り大きな問題になってしまい、どうやっても生存競争上この病気そのものが有利に働くとは考えにくいのです。そもそも病気そのものに何らかの進化論的な優位
性を考えていくのがちょっと変な発想であって、例えば心不全という病気そのものには何の進化論的な優位性はないのです。病気は病気であり、不具合です。
(ただ、この後で議論しますが、その不具合を補正しようとする生体のメカニズムは存在します。どのようなメカニズムによって不具合を補正し機能を代償する
かというやり方は、その人の生存の優位性に大きく関わってきます。例えば、心不全になると心臓のポンプ機能が低下して身体のすみずみに十分な血流を提供す
ることが難しくなります。これを補正しようとして、生体では抗利尿ホルモンやレニン・アンギオテンシン・アルドステロン系といったホルモンが働き、尿に
よって体液が減ることを阻止し、身体の中に水分を貯留するようになります。それが行きすぎると、身体に水分が貯留しすぎて肺に水分がたまる「肺水腫」にな
りますし、脚などにむくみがくる「浮腫」といった症状が出てきます。つまり、肺に水分がたまることや、脚がむくむこと自体は、何の生存競争的な利点はない
のですが、心臓のポンプ機能が低下し、心臓からの拍出量が減ったときに尿量を減らすことによって身体の内部に水分を貯留するというやり方は生存競争上間
違っていないし有利だったはずなのです。実際、人類がその多くの時間を過ごしたであろう原始時代では、人間が長生きして慢性の心不全になることは少なかっ
たはずです。それよりも、心臓からの拍出量が低下してしまう最もよくある出来事は「大けが」による出血だったでしょう。大量に出血してしまっても、何とか
止血できることがほとんどですし、その後しばらくすれば血液もつくられてきますから、短期間「だましだまし」血流量を保つような工夫があれば良いのです。
その意味では、大量出血によって血液が失われ、心臓からの拍出量が低下してしまったようなときに、尿量を低下させるホルモンが分泌され、身体の中に水分を
貯留することによって循環血流量を保とうとする代償メカニズムは、生存競争上非常に理にかなっており、有利に働いたはずでしょう。)
では、統合失調症とは、そもそもどういう病気なのでしょうか?統合失調症は、簡単に言うと、幻覚や妄想など正常な心理状態ではありえないような病的な心
理状態が存在するという「陽性症状 positive
symptoms」と、正常な心理状態では普通に機能しているやる気や意欲や物事を要領良くてきぱきとこなす能力などが低下してしまうという「陰性症状
negative
symptoms」とに分けて考えることが出来ます。「陰性症状」よりも「陽性症状」の方が人目を引き、分かりやすく、いかにも「病気」だという感じがす
るからでしょうが、多くの一般の人は「陽性症状」の方が問題だと誤解しています。しかし統合失調症の重症度は陽性症状のひどさ、つまりどれだけ激しい幻覚
妄想があるか、ということではなくて、陰性症状の重さ、つまりどれだけ意欲が低下し、物事を適切に判断し要領良く行動していくことができなくなっている
か、ということの方がより大きな要因になっています。しかも、治療に対する反応も、社会適応も、陽性症状の強さ(幻覚妄想がどれだけひどいか)はあまり重
要な要因にはならず、むしろ陰性症状の強さの方が重要な要因になっており、一般に陰性症状が重ければ重いほど、治療は困難になりますし、その後の社会適応
も悪くなることが分かっています。
さて、統合失調症の成因について、昔は「ドーパミン過剰仮説」というのがありました。つまり、何らかの原因で患者の脳内ではドーパミンという神経伝達物
質(より正確に言うとモジュレーターということになりますが)が過剰になってしまい、そのために幻覚や妄想といった統合失調症独特の症状を生じてしまうの
だ、と。実際、脳内の一部ではドーパミン系が過活動状態になっていることが示されましたし、統合失調症における幻覚や妄想などの陽性症状にはドーパミン受
容体をブロックする薬剤が治療的な効果を発揮することも分かっていましたから、この説はしばらくずっと正しいと見られていました。
ところが、その後統合失調症の患者の脳は、確かに一部はドーパミン系が過活動になっているものの、別の部分では活動性低下になっていることも示されてき
ました。これに関して幾つもの研究がなされた結果、結論としては中脳・辺縁系と呼ばれる部分ではドーパミン系が活動性過剰になっている一方で、前頭前野な
どの大脳皮質では活動性低下になっているのです。そして、中脳・辺縁系でのドーパミン系活動性過剰は幻覚や妄想といった陽性症状に反映され、前頭前野など
の大脳皮質でのドーパミン系活動性低下は意欲の低下や物事をてきぱきと要領良く処理する能力の低下などの陰性症状に反映されることが示唆されてきました。
これは一体どういうことなのでしょうか?何かの原因があって、患者の脳内ではドーパミン系がアンバランスになってしまうのでしょうか?あるいは何かの原因
で中脳・辺縁系のドーパミン過活動から前頭前野のドーパミン機能低下が引き起こされいるのでしょうか?あるいはその逆で、何かの原因で前頭前野のドーパミ
ン機能低下から中脳・辺縁系のドーパミン過活動状態が引き起こされたのでしょうか?
動物実験において、前頭前野の機能を低下させると、それを代償するように中脳・辺縁系のドーパミン系が過活動になるということが示されていることなどか
ら、現在では3つめの仮説、つまり、何らかの原因で前頭前野でのドーパミン系が機能低下を起こしてしまい、それを補正しようとして代償メカニズムが働き、
中脳・辺縁系でのドーパミン系が過活動状態になるのであろう・・・、という説が有力になってきました。つまり、心不全において、心臓のポンプ機能の低下を
代償しようとして、循環血流量を保つために水分の貯留が始まり、それによって浮腫や肺水腫という形で心不全の症状が表れてくる・・・という疾患メカニズム
があるのと同様に、統合失調症においては、前頭前野でのドーパミン系機能の低下を代償しようとして、脳全体でのドーパミン系の活性化がなされ、それによっ
て過活動となってしまった中脳・辺縁系でのドーパミン系の問題が幻覚や妄想といった陽性症状の形で表れてくる、ということのようなのです。
さて、ここまで分かってくると、統合失調症において幻覚や妄想といった陽性症状が生じてくる進化論的な意味合いが推論できてきます。
つまりこういうことです。何らかの不具合があって前頭前野の機能が一時的に低下してしまうことはあるのでしょう。しかし前頭前野の機能が低下してしまう
と、物事に対するやる気とか意欲といったものが低下してしまいますし、物事を的確にとらえて分析し、計画的に要領良くてきぱきと処理していくことが難しく
なります。さらに対人関係も困難になり引きこもるようになってしまいます。何から何までおっくうに感じるようになり、何をするにも多大な努力を必要として
きますし、すぐに疲れてしまいます。これでは、他人から見たら「ただのやる気のないダラダラ人間」ということになってしまい、明らかに生存競争上不利で
す。そこで、何らかの原因で前頭前野でのドーパミン系が低下してしまうと、それを補正するように、脳全体でのドーパミン系が上がるように代償メカニズムが
働くようにプログラムされたのでしょう。というか、そういう代償メカニズムをもつ遺伝子の方が、代償メカニズムを持たない遺伝子よりも生存競争上有利で、
生き残ってこれたのでしょう。しかし、統合失調症においては、その代償メカニズムが代償しきらないくらいに大きな前頭前野機能の低下の問題があり、いくら
代償しようとしても追いつかないため、しまいには代償過剰になってしまい、それが中脳・辺縁系でのドーパミン過活動の表れとしての幻覚や妄想になってしま
う・・・、ということなのでしょう。
しつこいようですが、また心不全の例をあげます。心不全では、確かに代償メカニズムとして水分の貯留が起こるのですが、いくら代償しても代償しきれない
くらいに心臓のポンプ機能の低下があると、代償メカニズムが行きすぎてしまい、結局肺水腫のために呼吸が困難になってしまいます。もともとは身体の機能の
バランスを保つために良かれと機能していた代償メカニズムが、行きすぎると害になるのです。こうなると、身体の代償メカニズムとは反対の作用をする薬剤、
心不全の水分貯留に対しては利尿剤、を使用しなくてはならないことになるのです。同様に、統合失調症における幻覚や妄想といった陽性症状も、代償メカニズ
ムの行きすぎによる症状と考えられますし、それによって多大な害が生じている状態なので、こうなってしまうと身体の代償メカニズムとは反対の作用をする薬
剤、この場合はドーパミン遮断薬(=抗精神病薬)が必要になってくるわけです。
心不全による肺水腫や浮腫の場合、本当は利尿薬を使って水分貯留を止めていくだけでなく、心臓のポンプ機能の低下というもともとの問題を治療した方が良
いに決まっています。しかし、ジギタリス製剤など幾つかの薬剤はあるものの、心臓のポンプ機能を健常者と同じくらい良くすることができるほどの良い薬はま
だ存在しません。
統合失調症における幻覚や妄想についても同様で、本当はドーパミン遮断薬を使って中脳・辺縁系のドーパミン過活動状態を中断させるだけでなく、前頭前野
でのドーパミン系低下というもともとの問題を治療した方が良いに決まってはいるのです。しかし、中脳・辺縁系でのドーパミン過活動状態を悪化させることな
く、前頭前野でのドーパミン系低下を改善するような良い薬はまだ存在しないのです。(現在の薬剤開発の最先端では、もちろん、この方向性で開発が進められ
ています。将来的には、そういう薬剤が治療薬として出てくるかもしれません。)
参考文献等:
(1) Siever LJ, et al. The pathophysiology of schizophrenia
disorders: Perspectives from the spectrum. Am J Psychiatry, 2004;
161: 398-413
第8章:性格や生き方は遺伝子で決まってしまうのか?
これまで、うつ病やPTSDのところなどで、人の性格や生き方の傾向は遺伝子によってかなりの部分決定されると考えられることをお話ししてきました。つ
まり、うつ病になりやすい、PTSDになりやすい性格とか生き方の傾向というものがあり、それはかなりの部分が遺伝子によって生得的・体質的に決定されて
いるようだ、という話です。では、もっと一般に「性格」というものも遺伝子によってかなりの部分決定されるということなのでしょうか。
これまで精神科の分野で「パーソナリティー障害」、つまりその人の性格とか生き方・対人関係の持ち方のスタイルに何らかの不具合があって、「その人がそ
の人であることそのもの」が辛くなってしまう問題は、さまざまな原因が考えられていました。パーソナリティー障害の中でも、最もポピュラーで治療場面に出
てきやすいものに「境界性人格障害 Borderline Personality
Disorder」というのがあります。慢性的な空虚感や対人関係の不安定さ、衝動的な行動パターン、一貫性のある自己像・他者像を一定に保てない、強い
見捨てられ不安がある、などの特徴があるこの精神障害は、過去には「生まれ」よりも「育ち」に問題があって生じるのだろうと考えられていました。人は幼児
期に少しずつ母親から心理的に分離し、個人というものをつくり、自己と他者の境界線をひくようになっていくのですが、この「分離個体化」と呼ばれるプロセ
スがうまくできず、その後ずっとその葛藤を引きずって大人になってしまった結果が境界性人格障害と呼ばれるようになるのだろう、という説がありました。子
どもが「分離個体化」のプロセスでつまずいてしまう原因として、母親側の分離不安があり子どもが自分から離れていく事に対して相矛盾するメッセージ
を子どもに与えてしまうことがあったのではないか、と想像されてもいました。また、境界性人格障害の患者の生育歴に非常にしばしば虐待歴があることから、
境界性人格障害と呼ばれる独特の対人関係のスタイルは、一種のPTSDのようなものではないか、と考える説もありました。では、本当にそうなのか?という
疑問が生じてきた背景があって、いろいろと研究がなされたのです。精神科の分野では「生まれ」の問題と「育ち」の問題の議論になると必ず出てくるのが「双
子研究 twin study」と「養子研究 adaptation
study」なのですが、この性格の問題についてもこれらの方法で遺伝的要因がどの程度関わっているのかが調べられたのです。Torgersenらの研究
では、221名もの双子(そのうち92名が一卵性双生児であり、129名が二卵性双生児でした)を集めて境界性人格障害の一致率を調べているのですが、そ
の結果、一卵性双生児の場合の一致率は35〜38%であるのに対して二卵性双生児では7〜11%となっており、この一致率の違いから相当に遺伝的な影響が
強いものであることが示唆されました。結論として遺伝という「生まれ」の要因が0.57〜0.69に対して、家庭環境による「育ち」の要因は0〜0.11
程度であることが示唆されたのです。また、統合失調症の場合一般での発生率が1%程度であるのに対して片親が統合失調症であると発生率が10%程度に上が
る事が知られているのですが、同様に境界性人格障害の場合も一般での発生率は2%程度ではないかと見積もられているのですが、片親が境界性人格障害である
と発生率が12%程度に上がってしまうことが示されてもいます。つまり、境界性人格障害と呼ばれる「性格」の問題は、相当な部分が遺伝的要因によって決定
されている、ということになるのです。
では、遺伝的要因が強いということは、「育ち」はあまり関係ないのか、というと、多分そういう事でも無いのです。ここから多少話が複雑化します。「育
ち」、つまりその人が幼少期からどのように両親と関わり、どのように養育され、しつけられ、どのように周囲の人たちと関わり、どのような環境の中で大きく
なっていくのか、ということ自体が遺伝的な影響を受けていると考えられるのです。遺伝的な要因によって、幼少期からその子の「気質」といったものが決定さ
れます。この「気質」によって、親から見たときに育てやすい子とか、育てにくい子といった違いが出てきます。親がどんな風にその子と関わるようになるかと
いうことは、子どもの気質によって大きく影響を受けてしまうのです。子どもがどんな風に育つかは親の性格やその子への関わり方の影響を受けるのですが、親
がどのような親になるかということも子どもの性格やその子の親への関わり方の影響を受けているのです。例えばKruegerらは生まれてすぐに養子に出さ
れ、別々に育てられた180名もの双子がどのような養育を受けたかを、その子が大人になってから聞き取り調査しています。その結果、少なくとも大人になっ
た人が思い出す「自分はこんな育てられ方をした」というものは、相当に強い遺伝的な影響を受けている事が示されたのです。(話が脇道にそれますが、彼らの
この研究の結果は、実は2通りの解釈の仕方があります。1つは遺伝子によって子どもの親との関わり方の傾向が作られ、それによって親がその事どう関わる
か、という親の側の行動が影響を受けるという考え方です。もう1つは、実は親の関わり方は子どもの遺伝子の影響を受けていないのだけれど、その子が大人に
なったときに自分の養育の記憶をどのように思い出すかに影響を与えてしまうのだという考え方です。例えば、遺伝的に対人不信が強く被害感が強い性格の人
は、自分の養育歴についても被害的に思い出す事が多く「こんなひどい育てられ方をしました」と報告しやすくなる傾向があると考えられるわけです。ただ、こ
のKruegerらの研究だけでなく、幾つもの別の研究結果から、少なくとも部分的には、親の子どもに対する養育行動は子どもの遺伝的・体質的な性格の影
響を強く受けてしまうということは示唆されているのです。)
他に幾つもの研究結果から、パーソナリティー障害という「精神障害」ではないものでも、現在では「性格」と呼ばれるもののかなりの部分が遺伝的な要因に
よって決定づけられる事が示されています。「性格」とは、つまりその人のあり方や、その人の対人関係のスタイルのことですから、「性格」が強い遺伝的な支
配下にあるということは、その人がどのように生きて、どのような人とどのような関わり方をしていくようになるのか、ということのかなりの部分が遺伝的・体
質的に決定されてしまうのだ、ということになります。これによって、事故や事件に巻き込まれやすい傾向を生じてしまったり、対人関係でもめ事をおこしやす
い(もめ事に巻き込まれやすい)傾向を生じてしまったり、孤独な生き方になってしまったり、といったことになってくるのです。先に出てきたKrueger
らは別の研究で「結婚」という行動に注目し、やはり双子研究の手法を使って(この研究は何と2500組以上の双子を集めた大規模なものでした)、結論とし
て人が結婚するとかしないとかといったことまで相当に遺伝子の影響を受けており、彼らの計算では約70%までが遺伝的要因によって決定されている、として
います。「結婚力」が遺伝子によってそんなにも決定されているとは、女性週刊誌とかに載せたら何とも身もふたもない話になってしまうでしょう。
「何だよ、またしても遺伝子によって運命づけられているなんて話なら、もう何を努力しても無駄じゃないか」とふてくされないでください。繰り返しになり
ますが、「育ち」は「生まれ」の影響を受けてしまい、それもその人の性格を形成することに関与すると考えられるからです。そして、その「育ち」は親の努力
によってある程度遺伝的影響が指し示す方向から変えていくことができることも分かっています。例えば、生まれつき「育てにくい子」というのがいます。そう
いう子どもと関わると、多くの親は適切な養育行動をとりにくくなり、つい子どもとの悪い行動の悪循環に入ってしまう事があります。それが慢性的に続くと
「挑戦性反抗性障害」と呼ばれる、いわゆる「困った子」になってきます。しかし、この「困った子」の問題は確かに遺伝的に決定づけられる傾向はあるのです
が、親が適切な養育行動を練習するParent
Trainingと呼ばれる(親に対する)行動療法によって改善することも分かっているのです。遺伝だけで、生得的な体質要因だけで、全てが決まってしま
うのでは全然ないのです。
参考文献
(1) Torgersen S. (2005) Behavioral genetics of personality.
Current Psychiatry Report, 2005; 7: 51-56
(2) Krueger RF, et al. (2003) The extended genotype: The
heritability of personality accounts for the heritability of recalled
family environments in twins reared apart. Journal of
Personality, 2003; 71; 809-834
(3) Johnson W, et al. (2004) Marriage and personality: A genetic
analysis. Journal of Personality and Social Psychology, 2004; 86:
285-294
(4) レックス・フォアハンド&ニコラス・ロング『困った子が5週間で変わる:親にできる行動改善プログラム』日本評論社
第9章:拒食症・過食症のもう1つの側面
いわゆる「拒食症」や「過食・嘔吐症」は、精神科の分野では「摂食障害 eating
disorder」という疾患分類に入ってきます。その多くは思春期あたりに発病することが多い事から、昔は「思春期やせ症」などと呼ばれていたこともあ
ります。疾患の特徴としては、自分の容姿・体型に過度なこだわりを持ち、強迫的に体重コントロールをするようになり、客観的には普通だったりむしろ痩せて
いるにもかかわらず「太っている」「もっと痩せなくては」と思い込み、食事量の過度な制限をしたり食べた後で吐いたりするなどの「異常な」摂食行動をして
しまうことがあります。この疾患は圧倒的に若い女性に多く、男性にはほとんど見られないという特徴もあるのですが、しかしもともと若い女性なんてのは自分
の容姿にこだわってみたり、「ダイエット」に励んだりしがちなところがあるので、一見この「病気」と「健康」との区別がつきにくく感じるかもしれません。
ただ、これが「障害」と呼ばれてしまうということは、その行き過ぎのために不具合が生じているという違いがあるわけです。
摂食障害の患者には、食行動の異常の他に幾つかの心理的な特徴があることがこれまでにも臨床的には気づかれていました。例えば、患者は体重コントロール
にこだわりを示すのですが、そのこだわり方が尋常ではなく、非常に細かく、柔軟性に欠け、よく「強迫的」と呼ばれる雰囲気を持ってきます。しかし、患者の
「強迫的」な心のあり方は食事や体重などの問題だけでなく、生活の仕方全般や対人関係一般についてもどこか柔軟性に乏しく、細かいことへのこだわりが強
く、あまり要領の良い感じではないことが多いのです。さらに、自分自身の気持ちや心の中のことを話す事が非常に苦手である事も臨床的にはよく気付かれる事
でした。摂食障害は精神科の治療としてしばしばカウンセリングが行われる事になるのですが、カウンセラーと1時間弱くらい時間をとってゆっくり話をして
いっても、どこか自分の気持ちを具体的に表現することが難しく、感情の背景についても「何となく」「ただ漠然と」ということが多いのです。これは一体どう
いうことなのか?ただ、そういう性格なのだ、そういう話し方をする人なのだ、と言ってしまえばそれまでなのですが・・・。私には、この疾患のこの特徴につ
いての疑問がずっと研修医の頃からありました。
この疑問に対する答えのヒントは意外なところから来ました。摂食障害は「ダイエット」などの食行動に関する一種の「嗜癖
addiction」ととらえる事ができるのですが、精神科でよく問題になる嗜癖には、アルコール依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症、などがありま
した。これらの疾患患者の多くは、衝動コントロールに問題があり、衝動行為や暴力性といった問題を合併していることも少なくないのです。そして、近年の脳
機能の研究から、衝動コントロールに問題のある人や暴力性の高い人、嗜癖傾向のある人などでは前頭前野での脳血流は低い事が多く、前頭前野機能を反映する
神経心理学的検査の成績が悪い事が多いことが示されてきたのです。前頭前野という脳の場所は、私たち人間が「人間らしく」生きる事に重要な役割を果たして
いると考えられています。つまり、物事を的確に判断し、柔軟に、順序良く計画的に物事を実行していくこと、自分の気持ちや他人の気持ちに気づき理解してい
く共感能力、衝動を適切にコントロールし「要領良く」生きていく能力、不安の反応を抑えていく能力、などに大きく関係しているのです。摂食障害と類縁のこ
うした「嗜癖」の人たちが前頭前野機能が低いということは、摂食障害の患者でもそうではないだろうか?という仮説を持つ事ができます。そして実際に、私自
身の研究も含めて、いろいろな人たちが摂食障害という疾患と前頭前野機能不全の関連性を調べ、結論として摂食障害患者では前頭前野機能が低い傾向がある、
ということが示されてきたのです。前頭前野の働きは、先にお話ししたように、私たちが柔軟性を持って世界と関わり、自分の気持ちにしっかり気づき、共感性
を持って他人と交わり、要領良く行動していくうえで重要な役割を果たしているので、この機能が弱い摂食障害患者においてしばしば「強迫的」な思考スタイル
があったり、柔軟性に欠ける対人関係の持ち方をしたり、衝動的で計画性に乏しい行動をする傾向があったり、全般的な知能は高く頭が良いはずなのにどこか要
領の悪いところがあったり、自分の気持ちにしっかり気づいたり他人の気持ちを正確かつ具体的に理解することに困難さがあることなどの心理的特徴は、なるほ
どと思えてくるのです。
ところで、「摂食障害患者では前頭前野機能が低い傾向がある」ということが事実だとして、この解釈の仕方には大きく二通りあるでしょう。1つは摂食障害
に伴う栄養障害によって脳の機能が低下してしまい、前頭前野機能が悪くなってしまう傾向があるのだ、という考え方です。もう1つはもともと生得的に前頭前
野機能が低く、そのことが間接的要因になって摂食障害を起こしやすくなるのだという考え方です。これを調べるにはどうしたら良いでしょうか?摂食障害を起
こす前に戻って脳機能の検査を行って・・・というのはタイムマシンでもなければ難しいです。かといって、何千人という大勢の女性を集めて全員に脳機能の検
査を行い、その人たちを何年も何十年も追跡調査して摂食障害を起こすかどうかを見ていき、起こした人とそうでない人の過去の検査結果を比較するという大規
模研究は、摂食障害のような発生頻度があまり高くはない疾患の場合とても現実的ではないです。じゃあ、どうすれば・・・。これまでの議論から勘の良い人は
お気づきでしょうが、双子研究を行い一卵性双生児で摂食障害を発症しなかったもう1人の脳機能を調べれば良いのです。実は、私の知る限りではそうした双子
研究はまだないのですが、似たような研究をHollidayらが行っています。彼らの研究では摂食障害を起こした女性の姉妹47名を集めて思考の柔軟性を
測定する神経心理学的検査を行っているのですが、その結果は、摂食障害を起こしていない姉妹(遺伝的に類似した脳の機能を持っていると考えられる)におい
ても、思考の柔軟性が乏しい傾向があることが示されているのです。つまり、摂食障害を起こしたから前頭前野機能が低下してしまったのではなく、前頭前野機
能がもともと低い素地があったから摂食障害を起こしやすくなってしまったのだ、という考え方が支持されるわけです。
こうした生物学的な脆弱性を背景に持つ事から、摂食障害というのは今では単純なダイエットの行き過ぎではないことが分かっています。では、なぜ前頭前野
機能が低いと摂食障害になりやすくなるのでしょう?これはまだ推論の域を出ないのですが、先ほどもお話ししたように、前頭前野機能というのは私たち人間が
人間らしく生きるのにすごく重要な役割を果たしているのです。この機能は私たちが自分の気持ちをしっかりと認識し、相手に伝え、その相手の気持ちもしっか
り認識し、こうして情緒的な交流を豊かに効果的に持っていく事に必須になってきます。ということは、逆にこの機能が低い人は、情緒的な(共感的な)他者と
の交流をうまくすることができず、どうしても精神的に孤独になりがちなのです。これはおそらくは早期親子関係においてもそうでしょうから、そういう基本的
な部分から「共感不全」を起したまま成長してしまうことになるリスクが高くなるのです。同様の「共感不全」と孤独感の問題は友人関係などにおいても生じて
くるでしょうから、慢性的な孤独感と寂しさ、抑うつ感、自尊心の低さを生じてしまい易くなるでしょう。さらに、柔軟性を持って物事をとらえる事がしにくい
ため、抽象的な価値観を持ちにくく、女性であれば容姿のきれいさとか、痩せている事とか、そうした表面的で分かりやすい価値観にとらわれがちな素地もつく
りあげてしまうのでしょう。
実際、臨床場面で摂食障害の患者にお会いしていると、問題は摂食行動の異常さではなく、むしろ「その人がその人であることそのもの」にあることが大きい
気がしてくることが多いのです。そちらの問題を治していかなければ、例え食行動に関する「嗜癖」「こだわり」が改善したとしても、治療としては不十分だろ
う、と思えてくるのです。
参考文献等
(1) Holliday J, et al. (2005) Is impaired set-shifting an
endophenotype of anorexia nervosa? Am J Psychiatry, 2005; 162:
2269-2275
(2) Favaro A, et al. (2006) perinatal factors and the risk of
developing anorexia nervosa and bulimia nervosa. Arch Gen
Psychiatry, 2006; 63: 82-88
(3) Lena SM, Fiocco AJ, et al. (2004) The role of cognitive
deficits in the development of eating disorders
.Neuropsychol Rev,14;99-113,2004
(4)堀江姿帆、小羽俊士ら(2005) 摂食障害におけるコミュニケーション上の逸脱とWisconsin Card Sorting
Testの成績不良の関係. 精神科治療学, 2005; 20: 1273-1279
第10章:心的外傷を忘れるとは・・・
大震災などの自然災害、犯罪被害、戦争、などいろいろな事件で死ぬほどの嫌な目に遭うと人はその不安な体験を忘れることができず、その事件を連想させる
ようなものを見たり聞いたりするだけで不安発作を起したり、不安な体験を思い起こさせるものを避けようとします。「死ぬほど嫌な目に遭った後の」不安が
ずっと続いてしまい、日常生活に支障を与えてしまうことは「障害」であり、これを「心的外傷後ストレス障害」と呼んだ
りします。(ここで、「心的外傷」は死ぬほどの嫌な目に遭うこととして定義されていることは重要です。最近心的外傷後ストレス障害の概念がやたらと拡大解
釈され、他人に意地悪をされたとか、上司に嫌なことを言われたとか、そういう種類の「外傷的体験」による反応まで「心的外傷後ストレス障害」だと主張する
人がいます。しかし「心的外傷後ストレス障害」にはちゃんとした定義がありますから、変に拡大解釈するわけにはいかないでしょう。他人に意地悪をされたこ
とや、上司に嫌なことを言われたことで不安や抑うつ反応を起してしまうのは、「適応障害」と呼ぶ方がより正確でしょう。)ところが、例えば戦闘というすさ
まじく外傷的な体験をしても、心的外傷によるストレス反応(これは特に戦闘ストレス反応 combat stress
reactionと呼ばれています)を起す人は一部でしかないですし、その後心的外傷後ストレス障害を起してしまうのも一部の人なのです。なぜ一部の人は
外傷的な記憶を忘れることができず、多くの人は忘れることができるのでしょう?そもそも、心的外傷による不安反応とは何なのでしょう?外傷的な記憶を「忘
れる」とは一体どういうことが起こっているのでしょう?
「不安」という情緒は、人間や動物の数ある情緒の中で最も普遍的で最も研究しやすいものであったために、これまでに多くの研究があります。その中に「恐
怖条件づけ fear conditioning」と呼ばれる動物実験の研究があります。
ネズミを飼育カゴの中に入れて、ブザーが鳴ったりランプが点灯したりするのと同時に飼育カゴの床に電流を流します。ネズミは電気ショックにより「死ぬほ
ど」ではないにしろ、相当痛くて嫌な思いをしますし、不安反応を起します。何度もブザーを鳴らしてランプを点灯させながら電気ショックを与えると、そのう
ち「パブロフの犬」のように条件づけがなされて、電流を流さなくてもブザーが鳴ってランプが点灯するだけでネズミは不安反応をするようになります。これが
恐怖条件づけです。ネズミは本来的には危険なものでも嫌なものでもないブザーの音やランプの光を「危険で嫌なもの」に関連付けてしまい、そのことだけで不
安反応を起すようになるのです。ちょうど、レイプ被害に遭った女性が男性全般を「危険で嫌なもの」に関連付けてしまい、本来的には危険でも嫌なものでもな
い男性を見るだけで不安反応を起してしまうことに似ています。
しかし、こうして「学習」してしまった不安反応は、いつまでも続くものでもないのです。ネズミに電気ショックを与えずに、ブザーの音とランプの光だけで
不安反応を起させていると、次第にブザーの音やランプの光に対して反応しなくなっていくのです。そして最後には、本来的に危険でも嫌なものでもないブザー
の音やランプの光を必要以上に怖がることはなくなり、「心的外傷」を忘れることができた(不安を克服できた)、ということになります。こうした現象は「消
去
extinction」と呼ばれるものです。不安を引き起こすものに繰り返し曝露されていると、次第に不安反応を起さないようになり、学習された不安反応
が消去されてくる・・・という事実は、「曝露療法 exposure
therapy」と呼ばれ「不安障害」の治療に実際に使われているものです。では、この「消去」とは一体何なのか?本当に学習された記憶が消えてしまった
のか?という疑問があります。消えてしまうとすると、どうやって消えるのか?消えない人がいるのはどうしてなのか?
この疑問に対する答えも、ネズミを使った動物実験から明らかになりました。そもそも、私たち人間を含めて動物が「不安」という反応を起すのは、不安を引
き起こすものが「不安」であるとか「嫌悪」すべきものであるとか、そういう反応が大脳の辺縁系と呼ばれる古い部分の中の「扁桃核
amygdala」と呼ばれる部分が反応することによって生じていることが分かってきました。「愛情」や「喜び」、「楽しみ」などポジティブな感情につい
ては今一つまだ分からないところがありますが、少なくとも「不安」や「嫌悪感」などのネガティブな感情については「扁桃核」が活動することによって生じて
いることは確かなようなのです。ネズミの恐怖条件づけも、扁桃核が活動することによって不安反応が起こっているわけです。そして、不安反応を起していたも
の(ブザー音やランプの光)が電気ショックなどの嫌悪刺激と一緒に与えられない状態が続くと、次第に大脳皮質の前頭前野から「これは大丈夫だ、不安反応を
起さなくても良いのだ」というように抑制が扁桃核にかかり、「消去」と呼ばれる現象が起こる事が分かってきました。つまり、「消去」とは扁桃核が本当に不
安な記憶を消し去り、忘れ去ってしまうことではなく、大脳皮質の前頭前野によって抑えられることを意味していたのです。ですから、不安反応を学習したネズ
ミに、「消去」によって不安反応を克服してもらった後で大脳皮質の前頭前野から扁桃核を抑制する神経線維を寸断してしまうと、一度は「消去」され「克服」
されたはずの不安反応が再発するのです。
心的外傷後ストレス障害についても、ネズミの恐怖条件づけと同様です。「死ぬほど嫌な目に遭うこと」によって人間も恐怖条件づけを学習してしまうので
す。その結果、例えばレイプ被害に遭った女性は、しばらくの間暗い場所や男性全般が不安を引き起こし、事件の時に目にしたちょっとしたものが不安を連想さ
せ、パニック発作のような不安を引き起こします。しかし、日常生活を普通に送っていれば、男性と接することも、暗い場所に行くことも、避けて通るわけには
いきませんから、自然に「曝露」が繰り返しなされることになります。男性に会ったり暗い場所に行っても、だからといってレイプされるとか、「死ぬほど嫌な
目に遭う」ことがないことが繰り返されているうちに、大脳皮質の前頭前野が「やっぱり大丈夫だ、そんなに不安になることはないのだ」というように扁桃核に
抑制をかけてきます。こうして次第に男性と会っても、暗い場所に行くことがあっても、不安反応を起さないようになり、心的外傷を「消去」した、「克服し
た」ということになるのです。
「心的外傷」の「消去」や「克服」が大脳皮質の前頭前野の抑制によるのだとしたら、もともと前頭前野の機能が弱かったり、前頭前野を頭部外傷などで壊さ
れていた場合は、うまく「消去」が進まず不安な体験を忘れられない、ということになりそうです。そして、実際にそうなのです。戦闘ストレスによっても心的
外傷後ストレス障害を発症する人と発症しない人がいるという個人差は、受けた外傷的体験の度合いもさることながら、もともとの前頭前野機能の弱さなどがリ
スク要因になっていそうであり、こうした生まれつきの脆弱性要因が少なからずからんでいることが、最近の研究によって明らかになりつつあります。
さて、心的外傷後ストレス障害が「恐怖条件づけ」のようなものだとすると、その「克服」は繰り返し曝露による「消去」による、ということになります。電
気ショックによってブザー音やランプの光に対して恐怖条件づけをされたネズミは、ブザー音やランプの光を不安がるようになるのですが、ネズミを不安がらせ
ないようにとブザー音やランプの光を全く与えずにいると、ネズミはいつまでたっても恐怖条件づけの「消去」ができないことになります。不安反応を引き起こ
すものがないと不安にならずにすむのですが、不安を消去する機会も失うことになるのです。「心的外傷後ストレス障害」も同様であって、患者は不安を引き起
こすものを意識的・無意識的に避けようとするようになります。レイプ被害にあった女性であれば、男性との接触をできるだけ避けようとしますし、暗い場所を
できるだけ避けようとするでしょう。しかし、こうすることによって不安にならずにすむかわりに、不安を消去する機会も失ってしまうのです。不安の学習につ
いては「鉄は熱いうちに打て」というところがあって、不安反応を引き起こすような体験をした直後から、それを避けずに「曝露」を繰り返し、不安反応を「消
去」していくことが重要であることが分かっています。だから、心的外傷の治療は難しいのです。患者が一番不安がり、一番避けていたいその時に避けないよう
にすることが治療上は必要になるからです。周囲の人たちは、できるだけ患者に不安な思い出を考えさせないようにしようとしますし、不安な思い出を連想させ
るものを排除しようとしがちです。池田小学校事件の時の学校の対応を憶えておられるでしょうか?学校は事件の後で児童をすぐに帰宅させましたし、事件のこ
とを思い出させてはいけないからという理由でしばらく休校にしましたし、校舎まで建て替えてしまいました。でも、本当にそんなやり方で良かったのでしょう
か?
どういう対応の仕方が、最も「恐怖条件づけ」が起こってしまわないようにすることができるか?ということは、軍陣精神医学の分野でずいぶん前から研究さ
れてきました。戦闘では、「死ぬほど嫌な目に遭う」ことが避けがたいですし、それで「恐怖条件づけ」が起こって戦闘不能になるわけにはいかないからです。
戦闘による不安反応は戦闘ストレス反応 combat stress
reactionと呼ばれています。そのような反応を起してしまった兵士にどのように対応することが最も良いのか?が研究され、結論としては、(1)不安
反応が起こったらなるべく早く対応し immediacy、(2)元の部隊にすぐに復帰できることを期待しつつ
expectancy、(3)戦場のすぐ近くで治療を行なう
proximity、ことが治療予後を良くすることが分かってきたのです。例えば、イスラエル軍はレバノン紛争の時に戦闘ストレス反応を起した兵士をすぐ
に戦場の近くで治療する方針でいたのですが、調整ミスによって一部の患者は戦場から離れた安全な後方地域に送られ治療されてしまいました。その結果、すぐ
に戦場の近くで治療を受けた患者に比べて、後方地域で治療された患者はより症状の回復が悪く、復帰率も悪く、その後心的外傷後ストレス障害になってしまっ
たものが多くなってしまったことが示されているのです。
軍隊において元の部隊にすぐに復帰することを期待しながら治療をするということは、元の部隊から30km〜40kmほど離れた場所にある治療施設(日本
の自衛隊では師団収容所と呼ばれる治療施設であり、さらに後方の野戦病院に送る患者とは違い、ここで治療される患者は原則数日で治療を終了し元の部隊に復
帰していくことになります。他方、野戦病院にまで送られてしまうと一旦元の部隊から所属を外され、より長期の治療期間を想定していくことになるのです。)
で治療を行なうことになります。現代戦では榴弾砲などの射程距離はだいたい30km〜40kmなので敵の砲撃がすぐ近くに飛んでくる可能性はありますし、
周囲は普通に戦闘態勢でいる味方の兵士に囲まれていて、あまり落ち着いて心の「治療」をするという感じではありません。そんな落ち着かない「戦場」で治療
をした方が治療成績が良いとは一体どういうことなのでしょうか?
どうやらその理由は、脳の記憶の仕方の特性にありそうです。記憶には「文脈依存性 context
dependency」と呼ばれる特性があります。つまり、ある状況で学習した記憶は、その状況下でアクセスしやすく、別の状況下ではアクセスしにくいと
いう特性です。このため、戦場という特殊な状況下で憶えた嫌な記憶は、戦場から離脱してしまうとアクセスしにくく、修正も効きにくくなってしまうのでしょ
う。
こうした事情があり、戦闘ストレス反応に対する治療の仕方はだいたいどの軍隊でも同様であり、上記の3つの原則を守ることを重視する点ではイスラエル軍
も米軍も自衛隊も同じなのです。イスラエルではテロによって小学校のスクールバスが爆破されるなどの事件があったりもしますが、こうした一般市民が患者と
なる場合も軍隊における治療に準じて、事件の後なるべく早く、その場で対応し、決して不安を回避したり思い出すことを避けさせたりすることはしない、とい
う方針で対応しているようです。日本の池田小学校事件の時とはずいぶん方針が違うことがお分かりかと思います。どちらの方法がより正しいでしょうか?
参考文献等:
(1) Solomon S, et al. Frontline treatment of combat stress
reaction: A 20-year longitudinal evaluation study. American
Journal of Psychiatry, 2005 ; 162: 2309-2314
(2) Milgram NA. Stress and Coping in Time of War.
Brunner/Mazel Publishers. 1986
(3)Le Doux. The Emotional Brain. Touchstone Book. 1996
第11章:リストカットはなぜ鎮静剤代わりになるのか?
境界性人格障害の患者には非常にしばしば習慣的な自傷行為が見られます。もっとも多いのは前腕を繰り返しカミソリやカッターなどで切りつけるもので、よ
くリストカットとか略してリスカと呼ばれたりしています。他に身体の他の部分を切りつけたり、タバコの火を押し当てたり、いろいろな形で自分自身の身体を
痛めつけ、傷つける行為を繰り返し、それが嗜癖のようになっている人たちがいます。こうした自傷行為は境界性人格障害に多いことは確かなので、よく自傷と
いえば境界性人格障害、境界性人格障害といえば自傷というように単純化して考えてしまう人もいますが、自傷行為はもう少し広く見られるようで、軽症の(だ
から自分の心に何らかの不具合があることが感じられている)統合失調症の患者などにも多い印象です。
手首(もう少し正確に言うと前腕部)を切りつける行為は、患者からのSOSであり、他人の注意を引きたい気持ちの表れなのだ、という考え方があります。
確かに自傷行為にはコミュニケーション的な側面があって、その行為を他人に見せることによって何かを伝えようとしていることはあるでしょう。しかし、多く
の自傷行為は最初のうちは一人でこっそり行われることが多いですし、多くの患者は家族に秘密にしているのです。また、しばしばこうした自傷行為は自殺企図
と見られることがありますが、患者に聞くと大抵自殺企図とは別物だと言います。むしろ、生きるために切っているのだ、ということも珍しくないのです。自分
の腕を切る事で安心する、血を見るとほっとする、鎮静剤代わりに自傷をしている、などという表現はよく聞くのです。これは一体どういうことでしょうか?患
者にとって自傷行為は本当に鎮静剤代わりになるなんてことがあるのでしょうか?もしそうだとすると、どういうメカニズムでそうなるのでしょうか?
前腕を切りつける患者に聞くと、多くの患者がリストカットをする時にあまり痛みや不安などのネガティブな感覚は感じないと言います。本当にそうなのか?
彼女らは健常者に比べて痛みを感じにくいのだろうか?という疑問から実験を行なった研究者がいて、結論は、やはり自傷行為を繰り返している境界性人格障害
の患者は痛みを感じにくいことが示されました。なぜそうなっているのか?どういうメカニズムが働いているのか?というのがその次の疑問です。
この疑問に対して、Schmahlら(2006年)は脳血流を測定して脳の活動性をモニターしながら、被験者に痛み刺激を与えたときに脳のどの部分がど
のように反応するかを見る実験を行い、自傷行為を繰り返している境界性人格障害の患者12人と健常者12人とを比較しました。その結果、やはり境界性人格
障害の患者は健常者に比べて痛みを感じにくかったのですが、これは脳の活動性にも表れており、痛み刺激を与えた時の痛みを認識する脳の体性感覚野での活動
性がより低いことも示されたのです。さらに、ここからが非常に重要な点なのですが、脳の中で痛み刺激を「不安」や「嫌悪感」として感じることに関わってい
る辺縁系と呼ばれる部分の「扁桃核」や「帯状回」の活動性が低く、辺縁系を抑制する働きをしている大脳皮質の前頭前野の活動性が高いことも示されまし
た。・・・といっても、何のことか分かりにくいでしょうから、もう少しちゃんと解説を加えます。
心的外傷後ストレス障害と「恐怖条件づけ」のところで見てきたように、痛みや不安などネガティブな感情は、その情報が脳の古い部分である「辺縁系」と呼
ばれる部分に伝えられ、「扁桃核」と呼ばれる部分が反応することで生じてきます。私たちは腕を切ったり、タバコの火を押し当てられたりして「痛み」の刺激
が与えら
れると、その情報はまずは脳の視床と呼ばれる感覚情報の集約センターに伝えられます。次に、「痛み」という情報は2つの経路に分かれることになります。1
つは視床から大脳皮質の体性感覚野に向かう経路で、体性感覚野においてこれが「手首を切られた痛みだ」とか「タバコの火が押し当てられた痛みだ」とか識別
するのです。もう1つは、視床から辺縁系の扁桃核などに向かう経路で、これによって「痛み」が「不安」や「嫌悪感」などのネガティブな情緒を引き起こすこ
とになるのです。こうして扁桃核はネガティブな情緒の中枢のような役割をするわけですが、「恐怖条件づけ」の話で見てきたように、扁桃核は大脳皮質の前頭
前野による抑制を受けています。例えば、ネズミにブザーの音と聞かせながら電気ショックを与えてブザー音に対する恐怖条件づけをしたあとで、ブザーの音を
鳴らしても電気ショックを与えないでいると「消去」によって、ネズミは次第に不安反応をしなくなるわけですが、これは前頭前野が扁桃核に「そんなに不安に
ならなくても良いよ」という抑制をかけているからです。同様に痛み刺激が加わると、普通はそれは「不安」や「嫌悪感」などのネガティブな反応を引き起こす
必要がありますから(タバコの火で熱い思いをしていながら平然としていたらヤケドをして取り返しのつかないことになりますので、「不安」反応を引き起こす
のは実に理にかなっているのです)、扁桃核が反応することは実にもっともなことです。しかし、ここでも前頭前野による抑制は働いていて、おそらく持続的、
反復的に同じような痛み刺激が加わると、大脳皮質の前頭前野は「そんなに不安にならなくて大丈夫だよ」というような抑制を扁桃核にかけてくるのでしょう。
同じような痛み刺激を持続的・反復的に感じざるを得ないような状況では、いちいち不安や嫌悪反応を起していたら身が持たないですし、状況に適切に反応する
ことが難しくなってしまうから、そういう機能がついたのでしょう。境界性人格障害の患者など自傷行為を反復的に行なってしまう患者が、繰り返し痛み刺激を
身体に与えていると、そのうち大脳皮質の前頭前野が扁桃核を抑制しはじめ、痛みを「不安」や「嫌悪感」といったネガティブな情緒として感じにくくなるので
しょう。
さて、境界性人格障害の患者は独特の不安や破滅的な寂しさなどのネガティブな感情を常に感じていることが多いのですが、そうしたネガティブな感情が強
まった時に自傷行為をするとどうなるか?自傷行為によって痛み刺激が加わり、自動的に前頭前野による扁桃核の抑制が始まります。すると、痛み刺激を「不
安」とか「嫌悪感」として感じることが抑えられると同時に、患者がそれ以外の方法では対処のしようのなかった独特の強い不安や寂しさなど「心の痛み」も抑
えられることになるはずです。こうして、実際に自傷行為をすることが「鎮静剤代わり」に使われることになるのでしょう。
だから、患者に自傷行為はいけないことだから止めなさいと言ったところで、止めるわけがないのです。患者にとっては、これしか耐え難い「心の痛み」を消
す方法がないわけですし、実際に有効に機能してしまっているわけですから。しかし、「恐怖条件づけ」のところで見てきたように、不安は避けている限り「消
去」することもできないのです。確かに、自傷行為によって患者の「心の痛み」は一瞬消すことができるかもしれませんが、それは一瞬のことにすぎないわけで
すし、こうして不安の元を避け続けている限り、それを克服する機会も失ってしまっているという意味において、自傷行為は問題を遷延化させるだけであり、止
めて行くべきものではあるのです。
参考文献等:
(1) Schmahl C. Neural correlates of antinociception in
borederline personality disorder. Arch Gen Psychiatry, 2006; 63:
659-667
第12章:愛は盲目
私たちが「愛情」と呼んでいる感情状態は、特定の状況で特定の情緒反応を引き起こしやすくしたり、特定の情緒反応を引き起こしにくくしたりします。結果
として、比較的ポジティブなものとしては、愛する者に対する何らかの愛他的な行動をとる可能性を上げていくことになるでしょう。生き物は原則的には利己
的な行動原理で動くものではあるのですが、「愛情」というものの影響下で、時には自分の利益を犠牲にしてまで愛するものために動こうとするわけです。これ
が「愛情」のポジティブな側面です。しかし「愛情」は時に非常に勝手なものであって、愛する相手に対して一方的な感情を押し付けてみたり、いらないことを
しようとしたりします。相手が本当はそんなこと望んではいないのに、場合によっては嫌がってさえいるのに、「ひとりよがり」な行動をとったりするのです。
進化論的に考えれば、私たちの遺伝子にこういう行動パターンがプログラムされているということは、そこに何らかの生存競争上の有利点があったからでしょう
が、時に「ちょっと、そういうのは社会的に見てどうなのよ」と言われそうなことさえ引き起こしてしまうことは、その辺にある週刊誌や新聞のテレビ欄に載っ
ている有名人のゴシップネタを見れば明らかです。
親子の愛情でも、非常にしばしば「ひとりよがり」現象は起こります。だいたいにおいて、親は自分の子どもの事については客観性をなくしているものです
し、他人から見ると明らかに子どもは困っているのに、親が何らかの感情を押し付けていることはよくあります。精神科の臨床をしていると、よく「この子の事
は私が一番分かっているんです!」という母親に出会います。非常にしばしば、こうした母親は全然子どもの事を分かっていないことがあり、明らかに子どもが
嫌がっていることを過干渉に押し付けようとしていたり、子どもからのメッセージに気づけないでいたります。これは何も私たちが精神科の専門家だから気づく
事ではなく、その当事者である親子以外の第三者が見たら誰でも気づくようなものなのです。つまり、親は親であるがゆえに、親として我が子を非常に愛してい
るゆえに、気づけないことが増え、「ひとりよがり」になってしまうのです。これは一体どういうことなのでしょうか?
近年の脳機能画像研究の発展で、いろいろな感情が起こっている時に、私たちの脳のどの部分がどのように働いているのか、ということがずいぶん分かってき
ました。恐怖条件づけとPTSDのところでは、恐怖や嫌悪感などのネガティブな感情が「扁桃核
amygdala」に関連することを見てきました。また境界性人格障害のところでは、衝動コントロールや社会的認知に前頭前野が重要な役割を果たすことを
見てきました。「愛情」についてはどうか、ということをBartelsとZekiらの研究(2000年、2003年)はfMRIという脳の機能を画像的に
測定する方法を使って調べています。その結果、男女の間の恋愛的な愛情であれ、母親と子どもの間の親子の情愛であれ、同様に脳の幾つかの領域を活性化し、
幾つかの領域を不活性化することが分かりました。脳の特定の領域が不活性化されるということは、その領域が扱っている心理的機能が低下することを意味する
わけですが、男女の間の恋愛感情においても、親子の間の情愛においても、驚いたことに扁桃核と前頭前野内側部が不活性化されることが示されていました。こ
れは何を意味するでしょうか?
扁桃核は脳の中でも辺縁系 limbic
systemと呼ばれる古い構造に含まれる部分であり、これまで「恐怖条件づけ」のところなどで見てきたように、不安や恐怖感などネガティブな感情の中枢
のような場所です。「愛情」によってこの部分が不活性化される、ということは非常に簡単に納得がいきます。やはり「愛」は強く、不安や恐怖感を吹き飛ばし
てくれるわけです。愛する人の前で、私たちは不安や恐怖に対抗して我が身の危険をかえりみず、愛他的な行動に出やすくなるのでしょう。私たちが不安や恐怖
感に押しつぶされそうになった時、愛する人のことを大切に思う気持ちを思い出せば良いかもしれません。「ハリー・ポッター」に出てくる「ディメンター」を
退治する方法として愛する人への気持ちを思い出すこと、となっているのは科学的に根拠がありそうな感じです。
一方で、この機能はネガティブに働く可能性もありそうです。愛する人が不安や恐怖感などネガティブな感情のもとになっているような悪い存在であった場合
でも、「愛情」の存在がそうしたネガティブな感情をかき消してしまい、より適応的な反応を起すことへの動機づけを邪魔してしまうかもしれません。相手から
身体的な暴力を受けたり、何かひどい目にあった時でも、「愛情」があると通常なら感じられるはずの、相手に対する強い不安や恐怖感、嫌悪感などを感じにく
くなる可能性があるわけです。すぐに逃げるとか、そんな相手からは離れるとか、別れるとか、そうした「適応的な」行動をとる気持ちが弱まってしまうので
す。(当然これはネガティブなこととばかりはいえず、「愛情」があれば少しくらい相手に傷つけられたところで、そう簡単にはその人との関係は壊れはしな
い、という安定性にもつながっているでしょう。これは長期間安定した関係を維持しなくてはいけない男女間の愛情についても、親子間の愛情についても、必要
なことではあるでしょう。)
「扁桃核」はネガティブな感情の中枢のような部位ですので、これが「愛情」によって抑制されるのはすごく納得がいきます。それに対して、私たちの「理
性・人間性」の中枢であるはずの「前頭前野内側部」が不活性化されるとはどういうことでしょうか。境界性人格障害のところでもご説明したように、前頭前野
は全体で私たち人間が理性的に、人間らしく生きるのに必要な機能が集まっています。「理性・人間性」の中枢といって良いかもしれません。特に、前頭前野の
内側部という場所は、自分の感情や他人の感情にしっかり気づき、相手の事情や気持ちを思いやったりする機能に必須です。こうした「気持ちに気づくこと」と
いう機能は「心の理論 theory of mind」と呼ばれ、人間が人間らしく行動するための社会的認知 social
cognitionの基本になっています。「心の理論」課題と呼ばれますが、私たちが相手の事情や気持ちを思い図ることをしている時に、脳ではこの前頭前
野内側部が活性化していることや、自閉症という他人の気持ちや自分の気持ちに気づく機能が著しく低下している精神障害においてはこの部分の活性化がうまく
いかないことなどが、これまでのfMRIなどを使った脳機能画像研究の結果から分かっているのです。「愛情」によって、この部分の機能が落ちてしまうとい
うことは、つまり「愛情」関係にある相手に対して、私たちは自分の気持ちや相手の気持ちを正確に読み取り、正しく思いやることが難しくなってしまう、場合
によるとひどく「ひとりよがり」に関わってしまう可能性が高いということになってきます。あまり納得のいかない気もしますが、いわれてみれば身に覚えのあ
る人も多いのではないでしょうか。愛する人を前にすると、私たちは何故か普段の冷静さを失ってしまい、親であれば「親ばか」になり、恋人同士であれば「バ
カカップル」になり、自分の気持ちにしっかり気づく事も、相手の気持ちにしっかり気づき適切な思いやりを持って行動することも困難になってしまうのです。
愛情は時に非常に身勝手でひとりよがりなものになることもあるのです。
「愛は盲目」といわれていることには、こんな科学的根拠と脳機能レベルでの背景があったわけです。
親子の情愛関係であれ、男女の恋愛関係であれ、私たちは相手の幸せを望むものでしょうし、相手の気持ちをしっかり理解したいと願うものでしょう。その相
手に対して、愛しているがゆえに、それが困難になってしまうというのは、大きな皮肉です。愛する人を真に理解し思いやることは、本当に大変な努力のいるこ
となのでしょう。
少し臨床的な意味合いを考えてみます。いわゆる「精神療法」という治療を行なうと、そのプロセスの中で患者は治療者に、治療者は患者に強い独特の感情を
持つことになります。これは古くはフロイトの時代から「転移 transference=患者から治療者への独特の強い感情」、「逆転移
counter-transference=治療者から患者への独特の強い感情」と呼ばれたりしてきましたが、多くの場合、この感情は過去には患者が親と
の間に経験してきた未解決の感情の治療状況での繰り返しであると考えられたりするのです。この意味で、患者から治療者への「転移」も治療者から患者への
「逆転移」も決して治療上不要な副産物ではなく、患者の病理を理解していくうえで、修正的な心理的作業をしていくうえで、治療プロセス上必須であるという
のが現在の考え方です。興味があるのは、この時患者の脳は、治療者の脳は、どのように機能しているだろうか?ということです。治療作業において、治療者が
患者の気持ちを理解し、思いやり、高いレベルでの共感を示していくことが非常に重要です。しかし親子関係にあった病的な対象関係が、患者・治療者の関係の
中で「再演」されることが治療上必要なプロセスだとすると、脳機能レベルでもその「再演」は多分起こっているのであり、つまり患者と感情的に強いつながり
を作っている治療者は、その患者への「愛情」ゆえに、時に患者の気持ちを理解し適切に対応してゆくことが困難になることが起こってくるのでしょう。この困
難な状況でいかに患者への「愛情」を失わずに、同時に「理解・共感」する機能を保ち続けることができるか、という難問がこの困難な治療を行なう治療者と患
者には課せ
られているわけなのです・・・。
参考文献
(1) Bartels A & Zeki S. The neural basis of romantic
love. NeuroReport, 2000; 11: 3829-3834
(2) Bartels A & Zeki S. The neural correlates of maternal and
romantic love. NeuroImage, 2004; 21: 1155-1166